師任堂(サイムダン)の全話あらすじと感想(1話から最終回まで)
韓国ドラマ師任堂(サイムダン)、色の日記<完全版>(韓国語:사임당 빛의 일기)の全話の台詞の解釈付きの詳しいあらすじと1話から最終回までの感想です。個別のあらすじと感想はリンクをご覧ください。このページではたいへん詳しくネタバレしていますので、あらすじを見たくない人は御遠慮ください。サイムダンの視聴率は初回が13.9%(ソウルで16%)の平均8.41%(ソウルで9.56%)〜10%程度のドラマです。このドラマは日本のほか、台湾、インドネシア、マレーシーア、シンガポール、香港で放送されました。
目次
概要
師任堂(サイムダン)、色の日記は、2017年 1月26日から2017年 5月4日までに22時から韓国で放送されたSBSドラマです。朝鮮時代サイムダンシン氏の生涯を再解釈した作品で、天才画家サイムダンの芸術魂と不滅の愛を描いた作品です。韓国美術史を専攻した大学講師ソ・ジウンが偶然発見したサイムダンの日記と美人画にまつわる秘密を解いていき、過去と現在を行き来するドラマです。このドラマで主人公演じるイ・ヨンエは「チャングムの誓い」以来14年振りにドラマに復帰しています。
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主な登場人物とキャスト
- 申師任堂(シン・サイムダン)
- このドラマの主人公で両班の女性画家です。実在の人物です。
- 1504年生まれ、1551年没。享年47歳。
- ドラマの中での年齢は史実から換算するとイ・ギョム(宜城君)と再会したのは39歳、ミン・チヒョン逝去時に41歳、最終回の時点で47歳です
- 「チャングムの誓い」のイ・ヨンエが演じています。
- ソ・ジユン
- このドラマのもう一人の主人公で現代の美術史の博士で架空の人物です。
- イ・ヨンエが演じています。
- 宜城君(ウィソングン)イ・ギョム(이겸, 李岒)
- 名前をイ・ギョムといい、師任堂の恋人です。架空の人物です。
- 1話の時点で19歳、師任堂と再会した時点で39歳、師任堂(サイムダン)と同年齢と思われます。
- 図画署(トファソ)の首長で比翼堂(ピイクダン)の堂首です。特技は絵、詩、琴など芸に通じていて何でもで剣術と銃の腕前も高い。ドラマではコムンゴを演奏。サイムダンより芸達者。
- 世宗大王の曾孫です。
- 臨灜大君の孫です。
- 父親は李浚(イ・ジュン)で逆賊として39歳で死にました。
- 王族で亀城君イ・ジュンと妾の子です。
- 李巌(りがん)がモデルと思われますが李巌の父は李浚ではありません。
- 演じているのは「Dr.JIN」のソン・スンホンです。
- 中宗(チュンジョン)
- 朝鮮の11代目の国王です。
- 俳優は「階伯」のチェ・ジョンファンです。実在の人物です。
- ミン・ジョンハク教授
- ジユンの指導教官で美術史の専門家で野心的な人物です。
- チェ・ジョンファンが演じています。
- 初登場時は高麗大学の学部長です。
- ミン・チヒョン(閔徵衡)
- 朝鮮時代の両班で成り上がり者で平昌(ピョンチャン)の県令の時に領議政に取り入り朝廷に出世しました。ミン・チヒョンは子ができない妻を毒殺しソクスン(石順)を正妻にしました。
- 俳優は「大祚栄」のチェ・チョロです。
- フィウムダンチェ氏(徽音堂崔氏)ソクスン(石順)
- ミン・チヒョンの妻です。架空の人物です。
- 演じているのはオ・ユナです。
- 出自は宿屋の娘です。
- ハン・サンヒョン(韓尚賢)
- 文学評論家でソ・ジユンの後輩。寿進坊(スジンバン)日記を解読する。
- 俳優はヤン・セジョン(楊世鍾)
- イ・ウォンス(李元秀)
- 申師任堂(サイムダン)の夫。1501年生まれ。イ・ウォンスはサイムダンの死の十年後1561年にこの世を去りました。享年60歳で師任堂(サイムダン)より三歳年上で実在の人物です。
- 読書が嫌いで遊び好きです。
主なキーワード
- 金剛山図(クムガンサンド)
- アン・ギョン作の朝鮮の金剛山を描いた水墨画。
- 師任堂(サイムダン)はこの絵にたいへん関心がある。
- 現代では国宝指定が確実な新発見の絵。
- 実在する場所で現在は北朝鮮にある。写真を見た限りではそれほど高い山ではないが大きな岩がむき出しになっている。現在は地雷があるらしく危険な場所のようです。
- 寿進坊(スジンバン)日記
- 師任堂(サイムダン)が命を懸けて書いた渾身の日記。
- ジユンの友人のコ・ヘジョンが修復する。
- ジユンの後輩のハン・サンヒョンが解読する。
- 比翼鳥(ピイクチョ)
- 片翼の鳥。
- 二人の愛の証。ドラマの冒頭でサイムダンが心を込めて比翼鳥(ピイクチョ)を彫りイ・ギョムに贈る。
- 比翼堂(ピイクダン)
- 宜城君(ウィソングン)が名付けた芸術サロン。
- 宜城君が首長。門下生たちは身分の区別なく芸術の振興に励む。
- 中部学堂(チュンブハクタン)
- 大臣や裕福な両班の子息が通う学校。有力な両班の息子であることが入学の条件。
- 姉母会(チャモエ)
- 中部学堂の学童の母と姉の会(婦人会)
- フィウムダンが会長。中部学堂を勝手にしきっている。
- 雲平寺(ウンピョンサ)
- 師任堂(サイムダン)の故郷にある山寺
- 架空の寺。和尚の描いた仏画が評判でサイムダンの興味を引く。
- 鳥竹軒(オジュッコン)
- 師任堂(サイムダン)の実家。名士申命和(シン・ミョンファ)が両班の少女に学問を教える私塾を開いていた。黒竹が生える。韓国に実在する(鳥竹軒の場所へのリンク)。
- 軒轅荘(ホノンジャン)
- 宜城君(ウィソングン)の大伯母イ氏夫人の家。19歳の宜城君(ウィソングン)が勉学そっちのけで絵を描いて過ごした家。
- 江陵(カンヌン)の北坪村(プクピョンチョン)
- 師任堂と宜城君の家がある村。サイムダンとウイソングンが青春を過ごした場所。江陵(カンヌン)は現在の韓国の東海岸に位置する。江陵の場所へのリンク(GoogleMaps)
- 寿進坊(スジンバン)
- 師任堂と夫イ・ウォンスの家。
- 漢陽(ハニャン)にある。サイムダンが母に貰った餞別と宜城君から貰った明国の龍煤墨(ヨンメムク)を売ったお金で家を購入・改修する。
- 楊柳紙所(ヤンニュンジソ)
- 師任堂の製紙場。サイムダンが流民とともに働き利益を公平に分配する理想の店。生活のためサイムダンの父シン・ミョンファの遺産をもとにはじめる。
- 壮元(チャンウォン)紙物店
- ミン・チヒョンの経営する紙物店。実質の経営者はフィウムダン。ミン・チヒョンが高麗紙の製法を入手したことにより明に紙を納入しているが質が問題視される。
- 池谷可度(チゴクカド)
- アン・ギョン(安堅)の落款。金剛山図の真作に押されている。
各話あらすじと感想一覧
個別のあらすじと感想へのリンクです。総合のあらすじと感想はこのページの下のほうで述べています。
あらすじ総合と感想
師任堂の全話の視聴感想を総合して書いてます。完全にネタ晴らししてますので見たくない方は目に触れないようにしてください。1話ごとの新鮮な視聴感想は上記のリンクに丁寧に書いてます。今回は最終回まで見終えた時点での感想です。
序盤(サイムダンの少女時代)
物語のはじまりは主人公ソ・ジユンがミン・ジョンハクの使用人として家を掃除してこき使われている場面です。一体何で主人公のジユンが指導教官の家の使用人として働いているのかチンプンカンプンです。後でわかるのですが、ジユンはかれこれ10年ミン・ジョンハクに仕えています。ジユンの年齢は師任堂とリンクしていると推定すると40歳くらいではないかと思います。ある日、ジユンはミン・ジョンハクが発見したアン・ギョン作の金剛山図(クムガンサンド)の論文を書くことを許されます。許されるというより、命令なのでしょうか?ジユンの立場はミン教授の「助手」だったことが終盤に明らかになりました。ジユンはこれで教授になれると喜んでましたので、「論文を書くことを許されたら発表して教授になる」という韓国の意味不明な伝統?が私にはまったく理解できませんでした。ジユンは大学の「講師」をして学生に講義をしている身分で、日本みたいに助教授という身分が無いのかな?その辺りは最後までよくわかりませんでした。ジユンはおかしいなと思いながら金剛山図の論文を発表します。するとハン・サンヒョンというミン・ジョンハクに逆らって解雇された若者が真作(本物)かどうか怪しいと質問したり、大学前で労働運動をして騒いだり、動画サイトに質問風景がアップされて雲行きが怪しくなりました。ミン・ジョンハクはジユンをイタリアでの学会時に罠にはめて解雇しました。ミン・ジョンハクはソンジングループの会長ホ・ヨンドとギャラリーソンの館長ソン・ミギョンの配下で彼らの思惑次第で学部長から学長への階段を狙っていました。
イタリアで無職となったジユンはある館で申師任堂の肖像画と寿進坊(スジンバン)日記と植物の種子を手に入れます。
韓国に戻ったジユンは友人のコ・ヘジョンに日記の復元を、ハン・サンヒョンに日記の解読を依頼し師任堂の人生をたどります・・・。
申師任堂(シン・サイムダン)は姓を申氏といい、本貫は平山、江原道江陵の出身で父申命和(シン・ミョンファ)と母龍仁李氏の娘です。名前は不明です。師任堂(サイムダン)という名前は堂号で両班の夫人が名乗る名前です。
※Youtubeよりサイムダンに口づけをする宜城君
二十年前、鳥竹軒(オジュッコン)に住む師任堂(サイムダン)は、軒轅荘(ホノンジャン)に金剛山図があるという噂を聞いて塀を乗り越え王族であるイ・ギョム(宜城君)と出会います。二人は金剛山図を通じてすぐに意気投合し愛を深めて婚約する間柄になりました。イ・ギョム(宜城君)は父とともに放浪していましたが、大伯母の家に居候しており勉学にも励まず絵が趣味でした。
イ・ギョム(宜城君)はサイムダンと結婚するため勝手に王だけが書ける婚書(ホンソ、婚礼の許可書)を偽造しシン・ミョンファに許しを得ようとします。国王の中宗(チュンジョン)は宜城君がそれほど恋している相手はどんな女人かと知りたくなりお忍びで鳥竹軒(オジュッコン)に現れました。師任堂は中宗が王とは知らず、女人禁制の金剛山に登りたいと言いました。父シン・ミョンファは徳の深い儒者で中宗を手厚くもてなし感動させました。中宗は宜城君に明国の高価な墨、龍煤墨(ヨンメモク)を贈りました。中宗は逆賊の一派(士林派)の一人で決行直前に中宗への忠誠心のため集会の場で席を立ったシン・ミョンファに一篇の詩を贈り、シン・ミョンファが痛く感激したことに味をしめ、感謝されたくて次々にあの日席を立ち生き残った逆賊の一派に同じ詩を贈りました。
「此の下民を哀しむ天の彝(い)を喪(うしな)う。己卯(きぼう)の逐客、心断絶す。国に人無く我を知る莫(な)し。予(われ)独り鬱してそれ誰と語らん。李懌(イ・ヨク=中宗)。(意味は、悲しいものだ。哀れな民よ。道理まで失ったのだな。己卯(きぼう)の年に追い出された者を切なく思う。国には忠臣がおらず誰も余の心を知らぬ。独り悩む心を誰に話せばよいのだろうか。つまり、あなたがいなくて余は切なく寂しいという意味ですから恋慕の情に似たような気持ちでキボウの日に席を立った者を思っているということで、この詩を貰った臣下は王様がこれほど自分のことを思ってくださっていたのかとドラマの中で感謝感激するわけです。)」
宿屋の娘ソクスン(フィウムダン)は学問に興味がありシン・ミョンファの講義を盗み聞きします。その時ソクスンは通りがかった宜城君が身分の区別なく接してくれる優しさに感動して一目ぼれをしてしまいます。
しがない地方役人のミン・チヒョンは出世のために(知性や衝動性に障害のある)領議政の息子を世話するために雲平寺(ウンピョンサ)に連れて行き女を呼び宴を開きました。
師任堂(サイムダン)は雲平寺(ウンピョンサ)の和尚の描いた仏画を見せてもらおうと和尚についてまわるうちに流民(るみん)という病気や貧困を理由とした逃亡者など行く当てのない人々が
高麗紙を作っている様子を見て衝撃を受けました。サイムダンはミン・チヒョンと領議政の息子が飢えた流民が苦しんでいるのに神聖な寺で女といかがわしい遊びをしていることを不快に思いつつ、仏画とともにシン・ミョンファの部屋で見覚えた詩を添えて少女に贈りました。
「此(こ)の下民を哀しむ天の彝(い)を喪う。己卯(きぼう)の逐客 心 断絶す。」
哀此下民彝天葬
己卯逐客心断绝
家に帰ったサイムダンは父に雲平寺で働く流民たちについて尋ねました。しかし父はこのことは見なかったことにするようにと娘に釘を刺しました。師任堂(サイムダン)は流民を可哀そうに思い支援することにしました。
師任堂(サイムダン)は雲平寺(ウンピョンサ)にいる流民たちのために食糧を持って行く決意をして宜城君に一緒に行こうと手紙を書き使用人のタムに渡しました。タムは宿屋のソクスンに手紙を託しました。ソクスンは手紙を持って宜城君の家に行くと、家の軒から宜城君が師任堂(サイムダン)を想う詩を吟じている声を聞いてうっとりしてしまいサイムダンの手紙を渡しませんでした。
「華やかな楼閣に春が来るのを待つが、まだ来ない。つがいの燕が飛んで柳は揺れ桃の花が舞う。小雨は一向にやまず庭には風が吹くだけ。」
「目元には憂いが漂う。待ち人はまだ現れぬ。」
申氏の家から婚礼の返事を待っていた宜城君は詩の続きを暗唱するソクスンと出合い筆を贈りました。家に帰ったソクスンは筆を見てはうっとりとして、サイムダンの書いた手紙を盗み読み翌日待ち合わせ場所に向かいました。
ミン・チヒョンは紙職人の息子に高麗紙の製法を盗ませ見返りに金を渡しました。
サイムダンは意図的に待ち合わせ場所に現れたソクスンとともに雲平寺(ウンピョンサ)に行きました。
領議政の息子は流民の少女が空腹から食べ物を盗んだことに腹を立て、流民の娘から奪ったサイムダンの絵と詩を見るなり激高し和尚と娘を斬り殺しました。ミン・チヒョンは証拠隠滅のため寺にいる者全員を殺して放火しました。
虐殺を目撃した師任堂(サイムダン)とソクスンは逃げました。師任堂(サイムダン)は倒れ、ソクスンは手に刀傷を負いました。ソクスンは師任堂(サイムダン)を背負って逃げました。
寺に火の手が上がっていることを見た宜城君は急いで師任堂の救出に向かいます。宜城君は意識がない師任堂を馬に乗せ、ソクスンを置き去りにして行きました。ソクスンに激しい嫉妬の炎が燃え上がりました。宜城君は医員を捜しに再び馬を走らせソクスンに懇願されます。師任堂の救命のため一刻を争う宜城君はソクスンに金を投げて去りました。ソクスンは師任堂へ激しい憎しみを覚えました。
中宗は詩を贈ったシン・ミョンファたちを殺すよう内禁衛将(ネグミジャン)に命じます。それを知ったシン・ミョンファはサイムダンに平凡な男とすぐに婚礼を挙げることで宜城君の命を救うように言いました。師任堂(サイムダン)は泣く泣くイ・ウォンスと婚礼をあげます。何も知らない宜城君(ウィソングン)はその様子を見て大きな衝撃を受けました。師任堂が婚礼を挙げた日の夜、シン・ミョンファは自害し内禁衛将(ネグミジャン)が解釈をしました(シン・ミョンファに嫡男がいたかはドラマの中では不明です)。
一方でソクスン(フィウムダン)はその時、ミン・チヒョンに取り入るためにサイムダンが虐殺を目撃していたと画帳と芍薬の帯を差し出します。ソクスンはサイムダンをミン・チヒョンに殺してもらおうと思ったのです。ソクスンは川で身を清めて嫡子を産み立派に教育することをミン・チヒョンに約束します。ミン・チヒョンはソクスンが長男を産んだことを確かめると両班の系譜を買い与え、ソクスンを両班にして正室夫人としました。ソクスンはフィウムダンとなり必死にミン・チヒョンに出世をさせるため安らぎのない緊張した日々を送ります。
・・・話の冒頭はこのくらいにして、序盤の感想です。現代と朝鮮時代の往復がなんとも気持ち悪くて受け入れがたいものがありました。現代を別とすれば朝鮮時代のストーリーはたいへん結構なもので順風満帆で幸せの絶頂の二人が悪に引き裂かれるというよくあるパターンです。多少の新鮮さもありましたけど、ミン・チヒョンと中宗、ソクスンの汚さ不愉快さに腹が立ち始めました。ミン教授もです。この不快感がまた韓ドラ特有なのかはわかりませんが、とにかく腹が立ってきます。
わからないのは文字も読め詩経に明るいサイムダンがなぜ国王の
自己愛に満ちたつまらぬ詩を仏画に書き込んだのかというところです。己卯といえば干支ですから、年を示すことはさすがの少女のサイムダンにもわかるはずです。逐客というのは追いやられた者という意味ですから、まさか流民に意味を重ねたのかどうか・・・しかし己卯逐客ですからどう考えても朝廷から追われたという意味になるでしょう?断絶すという意味は日本語では文字通りの意味しかなく、どうして切なく思うという意味に訳せるのか私には理解できません。少し調べたら、漢文で「心断絶」というのは恋しく思うという意味に近いとわかりました。心が千切れそうなくらい恋しいと。「己卯の年に謀反を企てた者のうち、席を立った者を恋しく思う」と中宗が書いたのは「もしその詩を贈ったらその者たちが泣いて喜び忠誠を誓うだろう」という
下心があったのです。中宗の狙い通り申命和は泣いて忠誠を誓いました。
しかし中宗の詩が虐殺後の雲平寺(ウンピョンサ)付近の市中に出回ったため、国王は
功臣らに敵である残党を感激させ忠誠を誓わせたと知られる前に皆殺しにするに至ったのです。
つまり
中宗の戯れがサイムダンの父を死に追いやったのです。
後に登場する士林派の
ペク・インゴル先生(イ・ギョムの友人)がなぜ生き残ったかというと、おそらくは漢陽(ハニャン)にいたから王が来なくて無事だったんだと思います。
地元の名士の娘で評判の美しい噂の少女、申師任堂(サイムダン)と結婚できると知ったイ・ウォンスは有頂天になります。
イ・ウォンスは以前からサイムダンに憧れていました。
虐殺の場に出くわし命を狙われ泣く泣くどうでもいい男と結婚し父を失ったサイムダン。大きなショックと心に深い傷を負ったイ・ギョム(宜城君)で序盤のストーリーは終わります。
ここでちょっと面白い要素といいますか、シン・ミョンファが暗殺される日、ミン・チヒョンがシン・ミョンファを殺しに来たんですね。それを内禁衛将(ネグミジャン)が助けている。内禁衛将はそのままシン・ミョンファを見殺しにしたほうが偶然の賊の襲撃を装い世間も納得したはずなのに、武人魂がシン・ミョンファに名誉ある自害という死に方を認めさせたと解釈できるでしょう。
中盤(中部学堂〜ミン・チヒョンの失脚)
時が流れ、既婚者となりイ・ウォンスとの間に四人の子をもうけたサイムダンは妻としての務めを果たす日々を送っていました。ある日、宜城君は流浪の旅から戻ってきて見合い話をいくつも断り、愛する師任堂が漢陽(ハニャン)に引っ越すことを知ります。
この時点で宜城君はサイムダンにぞっこんです。宜城君(ウィソングン)は弟分で山賊のイム・コッチョンに漢陽(ハニャン)への道が楽になるよう命じます。この場面はほのぼのとしてコミカルでした。
朝鮮の都、漢陽(ハニャン)に着いたサイムダンは住むはずの家がイ・ウォンスが詐欺被害に遭うことによって売りに出されていました。サイムダンは母から貰ったお金と宜城君から貰った中宗の龍煤墨(ヨンメモク)を売ったお金で自力で寿進坊(スジンバン)のボロ家(あばら家)を買い修繕します。夫のイ・ウォンスはお人よし過ぎてすぐに騙され大の勉強嫌いで根っからの怠け者で思考能力ゼロの知性の低い男でした。宜城君は困窮しているサイムダンを見るなりいてもたってもいられなくなり家まで見に行きます。ドラマだから許されるけど、宜城君は現代だったら立派なストーカーですね。
師任堂は生活を再建するために紙工房を開き良質の紙を作りはじめます。
宜城君はサイムダンを見守るために比翼堂(ピイクダン)を開き、門下生に紙を買わせ、イ・ウォンスを司訳官(サヨグォン)に登用させます。
徹底して邪魔をするミン・チヒョンとその妻フィィウムダン。はじめは師任堂の子、ヒョルリョン(李見龍)いじめから始まり、やがてはサイムダンの命が狙われ、宜城君が守ります。サイムダンは努力して人々の信頼と尊敬を集めます。とうとうミン・チヒョンは虐殺の悪事が暴かれ流刑となり、フィウムダンも地位を失います。
・・・と中盤のあらすじはこのような感じで、フィウムダンがサイムダンとその息子ヒョルリョンを学校から追い出すためにあれこれ罠を仕掛けて製紙場を燃やします。これがまが見ていて腹が立つんです!!!
中宗もことあるごとに宜城君を消そうとしたり、甘い言葉を使い信じてもらおうとしたり、飴と処刑の間で宜城君はとっくに王への信頼を失っていましたが表面的にはうまくやり過ごそうとがんばります。しまいにはミン・チヒョンが王への影響力が強いナム貴人に宜城君を憎ませす。ナム貴人は中宗と燕山君の側室で厄介なクソ女であったことは歴史の記録から推察できます。
現代ではミン・ジョンハクが助手にジユンを見張らせ妨害します。
この中盤での見どころは、宜城君が師任堂が雲平寺での虐殺を目撃して、しかも王の詩のせいでシン・ミョンファが殺され、愛する宜城君を守るためにどうでもよい男と結婚したと知り大きなショックを受けサイムダンへの愛しさがいっそう深まった場面です。宜城君は師任堂を守るため夜通し馬を駆って雲平寺(ウンピョンサ)へ行きフィウムダンに殺されそうになってる師任堂を救ったのです。師任堂を道ずれにしてフィウムダンは崖から身を投げましたが宜城君に救われます。師任堂だけを想っている宜城君に、フィウムダンの心はまた砕け散りました。みじめなフィウムダン。
※Youtubeより師任堂(サイムダン)を抱きしめる宜城君
ミン・チヒョンもまた高麗紙の製法の暗号を知った二人を直接殺そうとして、ソ・セヤンが官軍を派遣してイ・ウォンスが捕盗庁(ポドチョン)の兵士と捜索して事なきを得るのですが、そこでイ・ウォンスは妻と宜城君の深い絆を確信してがっかりしてしまうのです。洞窟での宜城君の愛の告白の場面。宜城君は師任堂に愛を告白します。師任堂はイ・ウォンスの呼び声に、心を抑え、宜城君に背を向けます。
この場面はほんとうに素敵でしたよ。
結局のところ、師任堂もミン・チヒョンも高麗紙の秘密は藤の木にあると知り、紙の質比べは同質のものとなり、絵の対決で師任堂が勝ちました。
終盤(最終回1話前まで)
二年が経ち、フィウムダンは国王の側室の娘を手下に襲わせ偶然通りがかって助けたように偽りミン・チヒョンを放免させました。ミン・チヒョンはフィウムダンに手を尽くさせ復権を目論みましたが領議政たちは相手にしてくれません。ミン・チヒョンは国の機密をフィウムダンに盗ませ倭寇と手を組みます。
中宗はナム貴人の言葉に逆らえず、宜城君を排除することを決めました。
師任堂(サイムダン)は娘のために一念発起して何と国王の肖像画を描く絵師の御真画師(オジンファサ)に任命されました。女性の登用に宜城君は選考方法を師任堂に有利になるよう、かつ公平になるようルールを変えたのでした。
王は師任堂に肖像画を描かせることで宜城君の失脚を企てます。中宗は途中から宜城君も絵の制作に加わるよう命じます。
王女の絵の先生となったフィウムダンは図画署(トファソ)で兵船の設計図を盗み倭寇に渡します。
中宗の肖像画を描く宜城君とサイムダン ※Youtubeより
師任堂と宜城君は二人で国王の肖像画を描いていました。師任堂に自分の姿を重ねて涙するフィウムダン。この時の悪女フィウムダンの心には純粋に宜城君への愛しかありませんでした。フィウムダンはこのとき以前見せていたような師任堂(サイムダン)への激しい殺意はもうありませんでした。フィウムダンはもう二人の間につけいる隙がないと完敗を受け入れていました。
中宗は大臣らに民衆に米を配ると嘘をつき怒らせ、反対の声を唱える儒者を門前に集めさせます。宜城君は王の罠を見抜き比翼堂(ピイクダン)の門下生らを門前に集めました。御真影が慣例に反して門の外に輿に乗せられ披露されました。反対の声は国王の徳を称える声にかき消され中宗の企みは潰れました。
不穏な気配を感じた師任堂は元流民たちに利益と土地を分け与え、故郷に帰るように言い製紙をやめました。
宜城君は自分の全財産を民が幸せになれることによく考えて使うように門下生たちに言いました。
宜城君を排除したい中宗はとうとうミン・チヒョンに宜城君の殺害を命じます。内禁衛将(ネグミジャン)は後でミン・チヒョンを消すように命じられました。倭寇は兵船の設計図の見返りにミン・チヒョンとともに宜城君と師任堂を殺す計画に加わります。
国を売ることにさすがのフィウムダンも決意が鈍り、盗んだ図面を自室の引き出しに隠していました。ミン・チヒョンはフィウムダンを殴り倒すと無理やり図面を奪い、武装して倭寇のところへ行きます。
ミン・チヒョンは宜城君をおびき出すために師任堂を誘拐します。
フィウムダンはミン・チヒョンが師任堂を誘拐したと矢文を宜城君の家に飛ばし監禁場所を教えましたが、フィウムダンの裏切りはミン・チヒョンに見透かされて師任堂は別の場所に捕らわれていました。
イ・フは世子にこのことを伝えに行き援軍を呼びました。
世子の天胤(チョンニュン)大君は宜城君を救出するため官軍を派遣しました。
宜城君(ウィソングン)は師任堂(サイムダン)が囚われている場所に行きましたがサイムダンはいませんでした。そこにミン・チヒョンと倭寇が現れ宜城君に襲い掛かってきます。
宜城君は官軍の援軍を得てミン・チヒョンを追い詰めました。ミン・チヒョンは師任堂(サイムダン)の居場所を聞き出す前に内禁衛将(ネグミジャン)に殺されてしまいます。宜城君はミン・チヒョンの執事のホンからサイムダンの居場所を知りました。
フィウムダンは一歩先に師任堂(サイムダン)を救出すると、行く当てのないジギュンとその弟(閔志成ミン・ジチュン)のことを頼むと言い残し去りました。
師任堂(サイムダン)はコン氏夫人とともに内禁衛(ネグミ)が来る前に急いでジギュンとその弟を救出しました。その様子を、息子との今生の別れを見送るフィウムダン。
中宗に詰め寄る宜城君 ※Youtubeより
夜の王宮では怒れる宜城君が血だらけの姿のまま王の部屋に現れ・・・・宜城君はとうとうクソな国王にブチ切れてしまいます。中宗は宜城君を斬り殺そうとしましたが、宜城君は刃を素手で握り止めて国王を叱ります。天胤(チョンニュン)大君はまさに父も宜城君も同時に殺されようとした時に涙ながらにやめるように言いました。宜城君は立ち去ります。
大逆罪となった宜城君は山賊のアジトに身を隠します。
領議政と左議政と右議政は中宗に大逆罪人宜城君を野放しにしてはいけないと言われます。
中宗は製紙場を打ち壊しにします。同じように高い評判の比翼堂も壊して閉鎖してしまいます。
何も知らない師任堂(サイムダン)は家に帰ると夫のイ・ウォンスが愛人を家に招き寄せたことに堪え切れずに泣いてしまい、子どもたちに夢だった金剛山に行ってくるように慰められます。
師任堂(サイムダン)は金剛山に行きます。
イ・フからサイムダンが二人で一緒にのぼると誓い合った金剛山に行ったと聞いていても立ってもいられなくなり、宜城君もまた金剛山の毘蘆峰へと急ぎます。
「金剛山。金剛山に必ず行きます。死ぬ前にクムガンサンの毘蘆峰(ポロボン)から景色を眺めたいです。」
少女時代のサイムダンはイ・ギョム(宜城君)に言いました。
「夫婦となって一緒に行こう。一人で行くな。他の誰と行ってはならぬ。そなたと一緒に行くのは私だけだ。」
先に約束の場所である毘蘆峰に到着した師任堂(サイムダン)はひたすら絵を描きます。宜城君は師任堂だけを想い、山を登ります。日が暮れ始めた頃に、宜城君は師任堂(サイムダン)と会い、かつて誓い合った「二人で金剛山に行き絵を描く約束」を果たします。
宜城君は師任堂には内緒で比翼鳥(ピイクチョ)を彫りはじめます。宜城君の心にはサイムダンへの純粋な愛だけがありました。
念願の金剛山で絵を描く師任堂(サイムダン)と宜城君 ※Youtubeより
「太陽は、一日中眠って夜に置き出す月を恨めしく思ってます。暗い夜に月ひとりで闇に立ち向かい世の中を照らすことのつらさも知らずに。月はいつでも太陽に寄り添っているのに」
師任堂と宜城君は一枚の紙に二人で絵を描き心で愛し合います。
素敵な場所ですね。どこで撮影したのでしょう。 ※Youtubeより
美しいです。宜城君とサイムダンの二人きりでの会話の場面。 ※Youtubeより
二人が愛し合い、三日が経った夜。サイムダンは愛の証である絵をすべて燃やしてしまい、置手紙と絵を置き姿を消しました。宜城君は何度も師任堂の名を呼びました。師任堂はその様子を見守ると、山を降りました。
(このことから宜城君はまだ師任堂と一緒になる希望を抱いていたことがわかります。)
中宗は宜城君をおびき出すために師任堂が楊柳紙所(ヤンニュンジソ)で不正を働いたと濡れ衣を着せました。
家に帰ったサイムダンは家が内禁衛(ネグミ)に包囲されました。
宜城君はサイムダンが子どもたちのために生きるならばと死を決意しました。
(宜城君は二人で愛し合える機会がもう二度と来ないと絶望したのでしょうか?)
・・・この時点で宜城君は何かしら逃げる手立てはあったのかもしれません。
しかし宜城君は内禁衛(ネグミ)に出頭し首に枷をかけられ牢に閉じ込められてしまいます。
宜城君が国王に刃を向けたことを知ったサイムダンは死罪だけはやめてほしいと牢屋のある役所に押し掛け叫びます。その声は牢にいる宜城君と、宜城君に勝とうとする中宗に聞こえます。宜城君にお前の愛する師任堂(サイムダン)を一生苦しませてやるという中宗はまさに人間のクズです。
申師任堂(サイムダン)が純粋に宜城君だけを愛し生きることを強く願った瞬間、時空の扉が開き、なんとソ・ジユンとサイムダンが夢の中で出会ってしまいました!!!
(いきなりの不思議な力が働く場面はまぢでドン引きです。)
ジユンは宜城君を助ける方法を申師任堂に教えました。
師任堂(サイムダン)は目を覚ますと皆を集めて宜城君を助ける計画を立てました。師任堂は世子に中宗の詩を渡し、ソ・セヤンに助力を求めると船を出す約束を取り付けました。天胤(チョンニュン)大君は国王が戯れで犯した罪の大きさを知り、詩を燃やしました。
愛するサイムダンのために、自ら死を望み出頭した宜城君を憎らしく思った中宗は、流刑の途中で宜城君が逃亡したように見せかけて殺すように内禁衛将に命じます。内禁衛将は潔くて何の罪もない宜城君にせめて名誉ある死をと言いかけるのですが、王様には逆らえません。
(中宗は本当にクズどころか、形容できないほどの極悪人です。)
流刑の日。宜城君を尊敬し同情している内禁衛将は宜城君を逃がします。内禁衛将は切腹することで落とし前を付けて自分の人生を終わらせました。中宗は宜城君を追わないように命じました。イム・コッチョンとイ・フたちは宜城君を浜辺で待つ師任堂に引き合わせます。宜城君は師任堂に手彫りの比翼鳥を贈り、一緒に行こうと言いました。師任堂は泣く泣く断り宜城君に寿進坊(スジンバン)日記と植物の種子、手紙を渡します。小舟が出発し、二人はいつまでも見つめ合っていました。宜城君は明国経由で砂漠を歩き、大陸を西に行き高い山を越えてイタリアのトスカーナに着きました。師任堂はミン・ジギュンにソン・シジンという名を与えて弟とともに自分の子として育てます。ヒョルロンとジギュンは同時に科挙に及第しました。
現代ではソン・ミギョンがジユンに寝返りホ・ヨンドとミン・ジョンハクが逮捕されチョン・ミンソクが無罪放免となりました。ジユンは目覚めて夫と再会し、幸せになることを誓います。ハン・サンヒョンはソン・ミギョンとホ・ヨンドの娘アンナと恋人としてやっていくことを決めました。
・・・と、あらすじだけをまとめると、本当に面白いストーリーなんですが、現代バージョンの演出が酷いといいますか、つまらないと思う場面が多いのですよ。あり得ないほどの悪役のクズっぷりにうんざりするといいますか、高貴な人妻の女性とイケメンの王族の禁断の愛というところがまた何とも新感覚で、器用にも子どもを愛しながら初恋の相思相愛の男を愛しながらも正気を保つという展開に納得がいかないところがあります(笑)その免罪符として夫のイ・ウォンスをダメ男にしてサイムダンと宜城君の恋愛を正当化しているところがどうも解せぬ!イ・ウォンスだって若い頃はサイムダンにのぼせ上がっていて、サイムダンのことが好きだったのですよ。師任堂が自分に惚れてくれたらどんなに幸せだろうかと。しかし結婚してから師任堂はイ・ウォンスを立派な父親にしようと教育して支えるたびに自分のだらしさに劣等感を覚えて勉学に励むどころか怠けて逃げ出してしまいます。このドラマでは人間をダメにする感情が劣等感であることを強く肯定しています。ここはドラマの重要な心の理屈です。
登場人物の劣等感
- 中宗・・・政変によって王になったという劣等感→廃位されたくないという強い欲望→殺人
- ミン・チヒョン・・・下級役人という劣等感→金と権力への強い欲望→殺人
- フィウムダン・・・卑しい身分で恋愛の対象ですらないという劣等感→金と権力への強い欲望→殺人
- 領議政・・・息子が精神障害であるという劣等感→ミン・チヒョンを利用
- ミン・ジギュン・・・首席でないという劣等感→ヒョルリョンが憎い→ヒョルリョンいじめ
- クォン氏夫人・・・大金がないという劣等感→詐欺
- ナム貴人・・・父親が粛清されたという劣等感→亀城君への憎しみ→宜城君を陥れる
- 宜城君やイ・フ・・・事実上飼い殺しの劣等感→遊び人→芸術の振興
- イ・ウォンス・・・賢くないという劣等感、妻に愛されてないという劣等感→怠ける、愛人への逃避
- 師任堂・・・奔放だったことが不幸を招いた劣等感→心を表出しなくなり慎重になり義務だけを果たす
劣等感と主人公申師任堂(サイムダン)の心理
韓ドラでは明確に劣等感とその後の行動の善悪の結果が描写されています。人は誰でも劣等感があってそれに対する反応が日常的に生じているわけですが、例えば自分が悪人を認識させられる誘引となる善人を見た時に、善人を殺すまで追い詰めたい欲望が生じます。それがいじめを自殺に追い込む暴力や虐待となり、自殺か殺人かというところまでエスカレートするのです。このドラマではそういうところまで割としっかり描いていると思います。逆に善人が悪いところをコンプレックスに持っていたら、自分の中の悪いと思うところを認識するたびに心の反応が生じて神経症や脅迫神経症になります。これは善く生きたいという意志の表れなんですが、これがどうしても苦しく思うのがノイローゼ気味の人の特徴です。師任堂(サイムダン)は善く生きたいと思うタイプの人間で、自分が感情を露わにした少女時代に自分に強い劣等感を抱いています。それが自分の気持ちを押し殺して妻として子どもと夫の世話に没頭したり流民の世話に没頭するワーカーホリックとなってます。師任堂(サイムダン)は現代では仕事中毒という心の病(神経症)なんですが、降りかかる災難を乗り越えるためにその特徴がよい方向に働いています。しかし最終回間際になりサイムダンは心労から胸が痛んで倒れてしまいます。ドラマの主人公といえば安心して見られる信頼感があると私たち視聴者は思い込んでますが、師任堂(サイムダン)は心に深い傷を負い、心が病みながらも家族のために無理してしっかり者になろうと演じているのです。師任堂(サイムダン)はとても無理をして生きています。その生き方は通常の人間には不可能なことで、普通の人間が同じようにやろうと思うと間違いなく心身に支障を来します。ドラマなので涼しく見ていられますけど。
ドラマの演出として幾度となく「切ない歌」が流れます。「YoutubeにもSaimdangのOSTで検索すると聴くことができますが、切なくて眠れなくなるので寝る前には聴かないほうがいいです(笑)「切ない」とは日本語で恋しい気持ちと悲しい気持ちが合わさり胸を締め付けられるような感情です。ドラマの中で何度も宜城君がその切なさや身もだえする苦しみを表現していました。恋心が叶わないと大体の人は切ない気持ちになるのでその気持ちがわからない人はあまりいないと思います。結婚後の師任堂(サイムダン)は感情を表に見せないタイプの女性となりましたので心の内側の表現はあまりなかったのですが、苦しみの後悔の念の中で生きているので、そこそこ強い心にならないと子育てをしながら夫を支えて敵と戦って生きることはできないと思います。師任堂(サイムダン)はもともとは中宗(チュンジョン)が豪胆というほどの当時にしては賢く幸福な女性でしたが令嬢らしく体力はそれほどありませんでした。たいした傷つきもなく生きて来た少女が不幸な目に遭うとどうなるでしょうか。たいていの人は心が病んで倒れると思います。しかしサイムダンは宜城君(ウィソングン)を守るため自分の気持ちを押し殺してイ・ウォンスと結婚しました。この日からサイムダンは心を隠して生きることを強いられた女性となります。師任堂(サイムダン)にとって唯一の幸せとは、子どもたちを遺せたことでした。普通はそんな結婚をしたらノイローゼや鬱になって心身を消耗し切ってしまうものの、師任堂はたくましく生きることを選びます。そうなんです、ドラマの心理からして師任堂は「生き方を選んでいる」のです。落ちこぼれるという暗い選択肢が大きな口を開けて待っているにもかかわらず、師任堂は落ちぶれない生き方を自分の意志で選びました。普通はサイムダンのように無理をすれば無意識に体調が悪くなり倒れますけどね。人はサイムダンのように生き方を選ぶということは、なかなかできることではありません。ですがそれができるということは、師任堂は最終的には心が強く賢いということになるのですが、果たして本当にそうなのでしょうか?私は違うと思います。ドラマの中で幾度となくサイムダンの心情を歌った繊細な歌が流れますよね。繊細さというものは、いわゆる心が傷つきやすい心理状態(神経症の状態)です。いろいろな演出を合わせると師任堂は最終的には心が強くて立派な女性ということになるのでしょうが、それは私たちが決めた他人への一般的な見方です。ドラマの中でのサイムダンの心はたいへん深く傷ついており、繊細で、宜城君の求婚に応えられない苦しみ、そして宜城君への愛情、夫の不倫の苦しみ、悪人の加害による被害心といった、普通の女性が生きていくうえで似たような経験をしたときの感情を表現しています。つまりサイムダンが出来事から受ける心の反応は至って普通です。つまり普通の女性です。違うのはその後の行動の選択です。傷ついたらパタンとそこで倒れるのが普通の人だとすれば、戦いや社会的に望ましい行動を選ぶのが師任堂(サイムダン)といえます。結局ドラマの中で、凡人との違いはその行動にあると思います。サイムダンのように社会的に望ましい行動をするためには心を世の中から隠さねばなりません。師任堂(サイムダン)は強いというよりは大きなストレスに耐えて無理をして生きている状態といえましょう。そんな生き方をしていれば短命になるのは当然です。
無論、中宗やミン・チヒョン、フィウムダンも心が病んでいます。現代の診断名では人格障害などといえるかもしれません。
普通の人が主人公になることは珍しいし、普通ってそもそも何だということになりますよね。私が思うに普通というのは、さしあたり使用人のヒャンとか、タムとか、流民あたりのそれほど賢くもなく、さほど悪くもないく、という人たちになるんじゃないかと思います。しかしもっとそのキャラたちを掘り下げて行けば普通じゃないところが見えてくるでしょう。
傍目イ・ウォンスも普通に見えますけど、すぐに騙されるところや有り金すべてすってしまうあたりは普通じゃない、頭が悪い(昔は頭が悪いのが普通かもしれませんが)と思います。
イ・フも心理的には神経症気味でしょう。終盤で心の苦しみを打ち明けています。
内禁衛将(ネグミジャン)も尚膳もあのような王の傍にいれば心が病んでるはずです。
このドラマの世界にいる登場人物は正気でいられるはずがありません。
傷ついて、心病み、辛うじて生きている。
それがこのドラマの舞台だと私は思います。
現実の世界ではどうでしょうか。
平然と生きてて毎晩よく眠れている人は割といますが・・・それは、そもそも認識していないから、苦しみを避けて考えないからであって何とも羨ましい限りですが、その人たちだって「器用に傷つきから避けている」と私は思います。そういう人たちの周りにはたいてい深く傷ついている人がいると思います。なぜなら傷つきを徹底して避ける人は、他人を傷つけ問題を押し付けるからです。それが家族であっても。そして自分たちは何も悪くないとどんなに悪いことをしても自分を肯定します。世の中にこのような「俺様私様」がいる限り、死にたいほど苦しむ人は絶えません。問題を自分で引き受けるタイプの人は、自問自答し脳のエネルギーを使い果たし気味でいつも消耗しています(苦笑)
つまり、毎日すやすや眠れて心乱れない普通の人は本質的には悪人で、それ以外は皆心の病にかかってるのですよ。
つまり人間ならば皆キチガイであり変態なんです。
宜城君なんか大の変態ですよ。現代の価値観では。でもそんなことはどうでもいいし、既存の善悪の価値観なんてそれほど正しいわけでもなく真実ではない。宜城君の愛は純粋なものであり、イ・ウォンスや子どもたちを傷つけるかもしれないけど、社会通念上はよくなくても、尊い気持ちだと理解できますよね。視聴者が憎く思うフィウムダンの宜城君への愛だってお邪魔虫の行動を除けば純粋な気持ちなんですよ。もちろん師任堂(サイムダン)の宜城君への愛も美しいものなんです。他人を傷つけるという余計な要素を除けば人を愛するという気持ちはそれ自体は美しいものと私は思います。フィウムダンの憎しみも、もっともなもので、誰だって人を憎むことはあると思いますが普通は行動に移さず耐えるものです。憎めば憎むほど善く生きたいと思ってる人ほど自分が苦しくなりますから大抵の人ならば耐え切れなくて憎むことをやめますけどね。少なくともフィウムダンとイ・ウォンスは自分にはどうしようもない「愛する人が別の人を深く愛している」事実を受け入れないと前に進めないのです。それは苦しいことですが、自分の人生をより良いものにしようと思うならそこでへそを曲げたりひねくれる暇はないはずです。善悪を乗り越えた究極の自己愛というのは怠けて逃避したり人を傷つけたり殺すことではなく、まさにどうしようもない事実を認めることなんです。心が弱くて受け入れるのが嫌で途中でくじけるから悪い方向に行くのです。非情なようですが、自分の利益のためには想いが叶わない事実を受け入れ強くなるしかないのですよ。未熟なうちは何度も揺さぶられてノックアウトされちゃいますけど、何度か挑戦してできるようになるしか成功しない凡人が心病まず人生を切り開く道はないのです。
この辺りは韓国も同じで欧米の考え方も、人類共通してますね。
・・・と私は思いました!どうでしたか?慰められました!?
そこまで意識しないと生きられない私でした。ほんと無意識に幸せに生きられてる人って羨ましいですね〜。私は認識して考えないと涼しく生きられないタイプなので。
既存の善悪の価値観に翻弄されて真実を見失っては人生つまらない。
どうでもいい話でしたね。
最終回
事が片付いた師任堂は夫のイ・ウォンスとの関係を修復し子どもたちに父を赦すように言いました。申師任堂(サイムダン)とイ・ウォンス、ソン(李峼)とメチャン(李梅窓)、ヒョルリョンとウ(李瑀)は仲のよい家族になりました。ミン・チヒョンの息子、ミン・ジギュン(閔志均)は科挙にヒョルリョンと同じ年に十三歳あたりで合格し、母のフィウムダンのもとへ帰りました(その後は俸禄がでるのかな?)。師任堂は亡くなり宜城君も最後の力を振り絞り肖像画を描き上げ愛の証としてシエスタ・ディ・ルナの扁額を彫り上げたところで物語の舞台は現代に移ります。
ソ・ジユンとチョン・ミンソク、コ・ヘジョンとハン・サンヒョンの身分は回復し息子のウンスとともにレストランで乾杯します。ジユンはイタリアのトスカーナのシエスタ・ディ・ルナに旅立ち庭に朝鮮の花(映像では思い切り朝鮮の撫子とは別のイタリアの花だったのですが)がたくさん咲いていて宜城君が彫った(ことになっている)玄関の飾り額を見て城の中に入ります。
ジユンは時々師任堂と入れ替わり、ラドは宜城君に入れ替わります。師任堂と宜城君はシエスタ・ディ・ルナで愛し合うラストを迎えます。
手を取り合う二人 サイムダン最終回 ※Youtubeより
・・・と最終回のあらすじはこんな感じで詳しくは個別の
サイムダン最終回のあらすじ感想の記事をご覧ください。
最終回についてですが、一件落着した後のエピソードという感じで宜城君は師任堂が死んだ直後に死期を悟って美人画を描き上げて亡くなります(亡くなったところは描いてませんが、間接的に表現されていました)。
サイムダンは家族との関係を修復し、フィウムダンも息子たちと再会しておそらくは両班の夫人として世の中に隠れながら生きていけるようになるような表現で終わっています。そしてサイムダンと宜城君は生涯心で結ばれて・・・と。
最終回の恋愛要素の見どころは宜城君がシエスタ・ディ・ルナで涙を流しながらサイムダンを想い続けるシーンにあると思います。男が涙を流して女性を想うのは、今の日本では考えられないことなのでまったくもって新鮮に思います(笑)韓国のリアルな男性はどうなんでしょうね。宜城君が庭で撫子の花(実際に映っていた花は全然別の花なんですが)を見て師任堂が隣に腰掛けて世話をしてくれる想像をしながら我に返るとサイムダンが恋しくてただ涙する場面は最終回の一番の見せ場だと思います。
もう一人の男、イ・ウォンスが死んだ妻を想っていつまでも哭泣する場面は愚かな男として演じられているのがなんだか残念でした。イ・ウォンスがこのドラマで男らしい表情を浮かべたのはたったの一度だけで「宜城君が師任堂の手を掴んだところ」を見ていた時だけでした(笑)あの時のイ・ウォンスの俳優さんはまさに男の顔をしてましたよ!
もしも宜城君があれほど情熱的に師任堂(サイムダン)を想わなければ、師任堂は苦しまずに生きられたように思います。宜城君に社会人としての理性があったならば・・・しかし王族として奔放に生きて来た人なのでそれは無理という設定なのでしょう。どうしたらそこまで情熱的になれるのでしょうね。やっぱりあり得ないですね、もし庶民がそれを演じたらストーカーの精神異常者ですから、貴公子という身分あって認められることでしょう。
でも人間というものはちょっと間違えば愚かな方向に行ってしまう生き物です。自分の道を行くよりも、他人と同じように真似して物真似の人生を送るほうがよほど簡単です。ですがそこに模倣できる道が無くなった途端、人は苦しみます。日本でいえば幼稚園や保育園があって両親がいて就職して〜年金貰ってといわゆる典型的な庶民の人生の理想像があり、そこから外れた人々は苦しんで自殺を考えるほどですよね。ドラマの中では両班の家に生まれて科挙に合格して官吏としての一生、女性の両班なら順調に見合いをして結婚して・・・と。そうなると、順調に愛が実らない時にもがき苦しむ人や両班の男としての国に仕える人生を歩めない人どうして責められましょうか。そこで耐えて乗り越えるか、それ以外に堕ちるかという選択が迫られた時、勇気を出せるかどうかが運命の分かれ道とも言えましょう。フィウムダンはまさに狂おしいばかりの嫉妬心で悪の道に行ってしまいます。ミン・チヒョンも人間らしい気持ちを無視するようになり救いようのない道に行って成功に味をしめて頭の中が一分の隙もなく凝り固まってしまいました。中宗も恐怖心のせいで功臣やオバサンの言いなりになり、簡単に人を殺したり陥れる人間になりました。そこまでいくと「元の健全な人間に戻れることはよほどの心の衝撃と改心がないと無理」ですから、救いようのない人間となるわけです。稀に改心する人もいますけどね。
そうなんです。だからこそ、これは劣等感の物語と私は解釈しているのです。
みんなみんな、劣等感で苦しんでいる。宜城君やイ・フでさえも王族なので典型的な両班としての人生を歩めない苦しみを抱いている。イ・ウォンスも頭が悪いことを劣等感に持ち勉学から逃げて苦しんでいる。ミン・チヒョンも貧しい両班であることに劣等感を抱いて苦しんでいる。中宗も平凡な人間には分らない苦しみを抱えている。
苦しみの中において、人が怠けず努力を続けるということは実にたいへんなことだと私はこのドラマを通じて、理解するようになりました。誰だってすぐに怠けるイ・ウォンスの気持ちはよくわかると思います。
実に私も劣等感で苦しみ力が発揮できないことは何度も経験しています。それに対して自分が現実で何を努力したかというと、途中で投げ出したりひねくれたり、逃げ出したり、心が弱いからそこで終わってしまうのです。
このドラマはそこで終わらずに命を懸けて乗り越える勇気というものを見せてもらいました。その勇気は真実であると私は思います。勇気を出し続けられる人生ならたとえ命が他より早く燃え尽き死んでも悔いはないと。道を外れた者が劣等感を克服するにはもうそれしかないのだと。脚本家がそこまで自覚してストーリーを書いたのかどうかまではわかりませんけど、このポイントは高く評価しました。
宜城君も師任堂もたいへん勇気ある人物として描かれています。内禁衛将(ネグミジャン)が宜城君を称えるのはまさにソコなんだと思います。
サイムダンは面白かった(総合感想)
結論です。私をここまで考察の道に導いてくれた「師任堂(サイムダン)、色の日記 사임당 빛의 일기」が面白くないとどうして言えましょうか。確かに現代の要素とファンタジー要素は面白くなかったです。もっと現代の量を減らして不思議な力の場面を消してくれたらよかったと思います。
登場人物が凶悪すぎて腹が立つのは韓ドラでいつものこととして、本質について考えてみると面白かったといえます。
おそらく脚本家が自分の境遇を師任堂(サイムダン)にリンクさせて書いたから現代と朝鮮時代の往復というアイデアが浮かんで来たのかもしれませんし、辻褄を合わせるために安易に不思議な力に頼ったことは私は良く思ってません。
一応、私がこの時点で感想を書いている年齢は師任堂(サイムダン)が宜城君との再会した時の年齢よりも年下です。
やはりこのドラマで一番心惹かれたのが「結婚したのは最愛の男性ではなくだらしない男で、心では最愛の人を愛している」という設定です。一番愛した人と結婚できる幸せを師任堂(サイムダン)と宜城君は身体的に添い遂げることができなかったけど心で添い遂げ精神面での愛は成就したと私は思います。心で結ばれるという経験がどんなに幸せなことか私には心から理解できるような想像力はありませんが、きっと幸福なことなんだと思います。宜城君がもう死んでもいいと思うくらいに。愛する人との子孫を残せないならいつ死んでもよいと考える気持ちはわかります。それは絶望というよりも、生きる理由がないといったほうが近いかもしれません。深い悲しみの向こう側といいますか、もう人間のあらゆる感情や欲望を超越した先の境地である気もしますが、続きのドラマでは「一緒に来ないか」なんて軽く言っちゃってるあたりは未練たらたらで(笑)このドラマの面白さはまさに「心から愛する人は結婚相手じゃなかった」に共感できるかどうかに尽きますね!その正直な気持ちって当人にも配偶者にもどうすることもできないじゃないですか。ここでどうにもならない純愛の真実を無視して社会通念を最重要と思えばこのドラマはたいへんつまらないという感想に行き着きますし、実際私も道徳観念に縛られてつまらないと評することが何度もありました。つまり頭でっかちにはわからない面白さがこのドラマにはあります。憎らしいところがあるとすれば、師任堂(サイムダン)と宜城君は相思相愛の仲だということです(笑)これは羨ましい設定ですね。宜城君が師任堂(サイムダン)と結婚できなくても心で愛し合っていれば幸せだ、もういつ死んでもいいという気持ちがよくわかります。幸福の本質ですね。
心が大人にならないと理解できない、韓ドラにしてはちょっとハイレベルなドラマでした。
サイムダンのレビュー
面白さ:★★★☆☆(途中で早く終わってほしいと思いました!編集のせいか面白くない回もいくつかありました。)
人間関係:★★★★★(過去はどの登場人物もしっかり心情が描写されていました。)
感動:★★★★☆(感動とがっかり感の往復。見終わってストーリーを振り返るとジワリと感動しました。)
純愛:★★★★★(純粋な愛でした)
勇気:★★★★★
禁断の恋:★★★★★(間違いなき禁じられた悲恋!)
腹立たしさ:★★★★★(Maxです!悪い奴がいっぱい!)
難易度:★★★★★(後で考えないと理解できませんでした)
ソン・スンホンの演技力:★★★★☆(申し訳ないけどところ恋愛以外の場面ではちょっと惜しかった。でも恋愛の場面ではたいへんセクシーです。)
イ・ヨンエの演技力:★★★★★(いろんな表情が見られました。現代シーンの冴えない感じが・・・なんとも。)
ソン・スンホンのイケメン:★★★★★(とっても色男でした。こんな人と会ったら絶対惚れちゃいそうです。)
優雅さ:★★★★★
宜城君の切なさ:★★★★★(恋愛時はたいへん素晴らしい演技で魅了されました)
チャンバラ:★★★☆☆(申し訳ないけどソン・スンホンのアクションは下手でチョロさんに劣りました)
総合評価:★★★★★(演出はバカみたいな場面が多くなるよう工夫されているが本質は深みのあるストーリーでドラマ終了後も何日でも余韻に浸れます。)
このドラマにご出演なさっている「ソン・スンホン」さんは本当に色男ですね。「Dr.JIN」の時はドラマのストーリーがつまらなさすぎて何とも思わなかったのですが、今回はセクシーさだけに注目すると、たいへん魅力的であると思います。ソン・スンホンが女性を口説く表情は他の男よりセクシー(熱心さが現れている)ですが、それ以外の顔は至って平凡です(笑)ソン・スンホンの素顔の軽薄さも王族という責任や存在する必要の無い立場でふにゃふにゃと育った役柄に見合っていると思います。ソン・スンホンじゃないとこのドラマは成り立たないと思いました。しかし俳優さんのもともとの軽いノリの人柄といいますか、知性のなさはそれが重要な戦いの場面や政治に関わる場面においてリアルさを感じなかったことはちょっとだけ演技不足であると思いました。戦う場面ではチョロさんのほうがお上手でしたし、政治となると左議政の鋭い刃物のような残忍な演技が光ってましたね。実のところ中年のソン・スンホンよりも青年の宜城君やハン・サンヒョンを演じたヤン・セジョンも存在感と頼りがいのある男という雰囲気が光ってました。ヤン・セジョンは特別にイケメンというわけじゃないのですが、朝鮮時代の服を着るとイケメンに見えて、言葉に力と説得力があって、頼もしいと思いました。「チュノ」で主人公が「あの服が偉そうに見えるからダメなんだ」と言っていたシーンを思い出しまして、まさにその通りだと思います。韓服を着る韓国人は現代服よりもかっこよく見えますから。
声優について
私はサイムダンの最終回だけ二度見して、二度目は声優で聞いてみました。すると「チャングムの誓い」のチャングムの声優さんと同じ人が師任堂(サイムダン)とジユンの声を担当していらっしゃったようですね。ドラマの中で「ヒョルロン」と変な言葉に訳されていましたが、オリジナルでは確かに「ヒョルリョン」と言っていますし、韓国語のわからない私でも日本語版にはずいぶん違和感がありました。「誠に幸せでした」という変な日本語訳もまるで日本の武士が言ってるみたいで(笑)優雅な官僚様のお言葉としては不自然で声優さんの雰囲気に張感がありません。師任堂の夫への話し方も現代的で言葉遣いがたいへんおかしいです。ときどき「なれど」とか妙な言葉と現代語と丁寧語と尊敬語がごっちゃになって知性や教養の高い大監レベルの両班階級が使う言葉としては不適切でお下品(田舎武士)な内容となってるみたいです。韓国語の両班の言葉づかいのほうが徹底しているので日本語版みたいに視聴者の知能の低さも考えてないのできれいに聞こえます。やっぱり本物の俳優さんの声のほうが自然でいいですね〜。一番変だったのがウイソングンという発音がウソングンと日本語の声優で聞こえたことですね。この声優さん、全然勉強しないで仕事してるなとわかりました。肝心のお名前を声優さんは呼び間違えてます。
私は韓国語の時代劇の言い回ししかわからない程度ですが、やはり物語への理解を深めるには日本語の声優で聞いてはダメだと思います。今回は表現をできるだけオリジナルに忠実に訳してみましたので参考にしてもらえれば幸いです。
ラドの正体
最後に、このドラマで最後まで残されていた謎であるラドの正体について。なぜ製作者がラドの正体を明かさなかったかは最終回まで見終えた人は想像がつくと思います。それほど重要な人物といえばあの人しかいませんから。賢い人は現代と朝鮮時代に同じ俳優さんが出演していることであの人も必ず現代で出演するはずだと予想されたことでしょう。最大の疑問はあの人が現代のソ・ジユンをどう思っているかです。少なくともラドが宜城君の肖像画を見て自分に似てるなと思ったとしたら以前からジユンに興味を抱いていたのではないかと思います。それは最後まで秘密のままでしたが、さてはて、どうなんでしょうね。飛行機の中に乗り合わせジユンを口説いていたイ・フの役者さん、実はラドに会いに行く予定だったのではないかと思いませんか?何となく過去と現在での同じ俳優さんの人間関係の距離感が完全リンクといえないまでも似ているところもあって面白いですね。