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へチ王座への道7話のあらすじと感想 해치 延礽君(ヨニングン)は王座を目指すために老論の分裂を図り...

へチ王座への道7話 目次 [ あらすじ ] [ 感想 ] [ 関連記事 ] あらすじ 夜、景宗(キョンジョン)は亡き父王の御真影に語り掛けました。 「 私も、知っていました。私は王にふさわしくないことを。この座は私めのものではないということを。」 都城(トソン)の街(回想シーン)。 雨が振り雷鳴がとどろきました。 延礽君(ヨニングン)もまた父を思って街をさ迷っていました。 「どうしてそのような生き方しかできぬのだ!」 生前の粛宗は延礽君(ヨニングン)の遊び人としての生き方を憂いていました。 「覚えていてください。兄上は・・・この国の・・・。」 延礽君は自分を慕っていた延齢君(ヨルリョングン)の死を思い出しました。 「王になれば少しは力が持てたかもしれません。」 延礽君はミン・ジノンの挑発を思い出しました。 王座の前(回想シーン)。 扉が開き、雨と涙に濡れた延礽君が入って来ました。 「行くところがなかったのだな。お前も。お前と私が残った。この血で混乱した宮に。父上も、フォンも、逝ってしまった。泣かぬともよい。罪人は私だ。どうしてお前が罰を受けようか。」 景宗もまた心の中で泣いていました。 「世子邸下(セジャチョハ)と私は、生き残ったのではありません。あの者たちにどうしてか生かされているのです!ゆえに私が本当の罪人を罰してはどうでしょうか。どうしてか生き残った私と邸下(チョハ)が!がこの世の中を覆してはどうでしょうか。」 延礽君(ヨニングン)はしっかりとした口調で兄を励ましました。 王の幸行の休憩所(日中の楼閣)。 「本当にやったのだな。お前が。」 景宗は報告に現れた弟に尋ねました。 「はい。殿下にお約束した通り、老論(ノロン)は分裂し始めるでしょう。ひび割れた陶磁器は・・・。」 延礽君は兄を励ますような口調で報告しました。 「崩れやすい・・・。次は、私の番だな。」 景宗は空を見上げました。 司憲府(サホンブ)の建物の前。 「ネイノン!ただちに下がらぬか!」 イ・イギョム、ミン・ジノンら老論の重臣たちは司憲府の前に集まり抗議していました。 「当然、下がるべきはあなた方です。憲府(ホンブ)を圧迫する朝臣方です。聞け!吏曹参議(イジョチャミ)チョン・ジ

景宗(キョンジョン 경종)は少論と老論の激しい党争に巻き込まれた朝鮮国王-粛宗と禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)の息子 彼の思いに迫る!

景宗(キョンジョン) 景宗(キョンジョン) 韓国ドラマ「ヘチ」よりハン・スンヒョン演じる景宗 画像はSBS公式動画( “내가 더 다루기 쉬운 말” 정일우, 복수의 서막 시작 《HAECHI》 해치 EP06 )から引用 韓国ドラマ「トンイ」や「ヘチ 王座への道」などに登場する景宗(キョンジョン)は朝鮮後期の20代国王です。父は19代朝鮮国王の粛宗(スクチョン)で、母は悪女として知られる禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)です。景宗はドラマでは存在感の無い王子または国王として描かれていますが本当の姿を描こうとした作品は少ないように思います。景宗がこのように影の薄い国王として描かれる理由に、粛宗實錄や景宗實錄、英祖實錄などにて母のチャン氏を悪者に決めつけて淑嬪崔氏(スクピンチェシ)を正当化するように編纂されていることが考えられます(※筆者の見解です)。 景宗はドラマで描かれているような無気力無能な王ではなく、その逆で国や民のための政策を実行できる王でした!老論派の反対を押し切って量田事業を行い私腹を肥やしていた両班から税を徴収したのです! 目次 概要 時代背景と解説 生涯 家族 墓 景宗が登場するドラマ 関連記事 概要 景宗(キョンジョン 韓国語:경종)は名前を李昀(イ・ユン 韓国語:이윤)と言い、本貫は全州で字(あざな)は輝瑞(フィソ 韓国語:휘서)、諡号(しごう)は景宗德文翼武純仁宣孝大王(キョンジョントンムニムスニソンヒョテワン 韓国語:경종덕문익무순인선효대왕)です。父は粛宗(スクチョン)で母は禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)です。妃は沈浩(シム・ホ)の娘で端懿王后(タヌィワンフ 韓国語:단의왕후)です。継妃は魚有龜(オ・ユグ)の娘宣懿王后(ソニワンフ 韓国語:선의왕후)です。 景宗は年に1688年11月20日(旧暦 10月28日)に生まれました。父王の粛宗が崩御すると1720年7月17日(旧暦 6月13日)に即位し、1724年10月11日(旧暦 8月25日)に亡くなりました。 時代背景と筆者の解説 景宗がいた時代は、父王粛宗の治世の時に西人(ソイン)と南人(ナミン)という党が激しく争っていました。南人は景宗の母である張氏を宮中に送り粛宗の側室とし、王妃にすることで権力を得ようとしていました。西人(ソイン

へチ王座への道6話のあらすじと感想 해치 延礽君(ヨニングン)は兄王を守ろうと王族を失脚させ老論派の分裂を試み...

へチ王座への道6話 目次 [ あらすじ ] [ 感想 ] [ 関連記事 ] あらすじ ミン・ジノンはウィ・ビョンジュに典獄署(チョノクソ)の囚人を故意に逃がして再び捕らえるよう命じました。しかし脱走した少論の囚人は捕まることはありませんでした。国王の景宗(キョンジョン)は老論派の攻撃に圧倒されまともに返事をすることもままなりません。宣懿王后(ソニワンフ)は老論に対抗するために次の国王となる養子を選び始めました。清から戻ってきた密豊君(ミルプングン)も清国の官僚を後ろ盾にして王位を狙っていました。 延礽君(ヨニングン)は焦るミン・ジノンに声を掛けました。 「王子が一人、必要ではありませんか?すごろくの駒のようになってくれる王子が。」 王妃の部屋。 怒り心頭の仁元大妃(イヌォンテビ)は部屋に入るなり中殿(チュンジョン)の宣懿王后(ソニワンフ)を「絶対になりません!」と叱りました。宣懿王后(ソニワンフ)は密豊君(ミルプングン)を養子にしようとしていました。 宴の席。 景宗(キョンジョン)は清の使臣を接待しました。密豊君(ミルプングン)は愛想よく笑うと国王と使臣の前で舞を披露しました。 別の部屋。 延礽君(ヨニングン)はミン・ジノンに「密豊君より私のほうが扱いやすいでしょう」と言いました。 少論のイ・グァンジャとチョ・ヒョンミンは、延礽君がミン・ジノンと二人きりで話しているところを目撃しました。 宴の席。 延礽君は景宗に視線を送ると礼をしました。 都城(トソン)の街。 パク・ムンスはチョン・ヨジとともに科挙でパク・ムンスに便宜を図ろうとした男を捕まえました。そこにアボンとチャンダルが戻って来ました。 パク・ムンスはヨジたちを引き連れて合格発表の場所に向かいました。 パク・ムンスは合格者名簿を恐る恐る見ましたが、主席にも次席にも自分の名前はありません。ヨジは下から名簿を見ると「ここにも載っていません!」と大きな声で言いました。パク・ムンスは必死で自分の名前を探しました。その様子を司憲府(サホンブ)の監察ユン・ヒョクらが見守っていました。 司憲府(サホンブ)。 ウィ・ビョンジュは宗親部(チョンチンブ)から来た不正の文書を誰が処理したか部下に尋ねました。 監察

副修撰(ブスチャン 부수찬)朝鮮時代の官職

副修撰(ブスチャン) 副修撰(読み: ブスチャン 韓国語: 부수찬)は李氏朝鮮時代の弘文館(ホンムングァン)の官職です。身分は従六品です。 歴史 1420年(世宗2年)集賢殿(チッピョンジョン)に副修撰一名を置きました。 1456年(世祖2年)死六臣事件が起きて世祖が廃止しました。 1470年(成宗1年)弘文館(ホンムングァン)に集賢殿(チッピョンジョン)の機能を復活させて副修撰二名を配置しました。 1479年 弘文館(ホンムングァン) に分離され制度は朝鮮後期まで続きました。 概要 定員は二名です。弘文館(ホンムングァン)は最高の文筆機関で代表的な淸華職と見なされました。經筵官(キョンヨングァン)、史官(サグァン)、知製敎(チジェギョ)を兼ねました。副修撰(ブスチャン)も春秋館記事官(チュンジュグァンキサグァン)と知製敎を兼ねていました。三司(サムサ)の一員として言論活動に従事しました。 弘文館(ホンムングァン)の他の役人たちと一緒に敎書(キョサ 国王の命令書)を代筆して歴史を記録することが主な職務でした。 文科(科挙)の合格者の中から圈點(グォンジョム)を通じて選抜され、弘文錄(ホンムンノク)に登録されました。弘文錄に載った人材は(名家出身の両班なので)上位職に欠員が生じた場合、勤続日数に関係なく特別な待遇を受けました。 補足: 圈點(推薦)をたくさん受けた人ほど有利になりました。名家の出身であることに加え、資質が必要でした。弘文錄の名簿は15名程で、弘文館(ホンムングァン)に欠員が生じた場合、国王が3人ほどの選ばれた中から1名を 落點(任命) しました。 参考文献 부수찬(副修撰)

李光佐(イ・グァンジャ 이광좌)は科挙主席の文臣で景宗を支えた少論の大臣

李光佐(イ・グァンジャ) Youtube SBS公式動画「ヘチ」9話 よりイム・ホ演じる李光佐 韓国ドラマ「ヘチ」にも登場する李光佐(イ・グァンジャ)という人物。李光佐(イ・グァンジャ)は李氏朝鮮時代に実在した少論派の領袖(りょうしゅう)です。 目次 [ 概要 ] [ キャリア ] [ 著作 ] [ 家族 ] [ 李光佐(イ・グァンジャ)が登場するドラマ ] [ 関連記事 ] 概要 李光佐(イ・グァンジャ 韓国語:이광좌)は1674年(粛宗15年)に生まれ、1740年(英祖16)に亡くなりました。本貫は慶州(キョンジュ)で字は尙輔(サンポ)、雲谷(ウンゴク)、李恒福(イ・ハンボク)の息子です。李星男(イ・ソンナム)の曾孫であり祖父は李時顯(イ・シヒョン)です。父は掌令(チャンリョン 正四品)李世龜(イ・セグ)です。諡号は文忠です。 キャリア 1694年(粛宗20年)科挙の文科に 主席合格 しました。 1697年 副修撰(ブスチャン) に任命されました。 1703年 修撰・副校理(キョリ)を経て司憲府獻納(サホンブホンナプ)吏曹佐郎(イジョチャラン)などを歴任しました。 1708年 全羅道観察使(チョルラドカムチャルサ)から吏曹参議(イジョチャミ)に昇進しました。 1712年 副提学(プジェハク)に任命された後、平安道観察使(ピョンアンドカムチャルサ)になりました。 1715年 同知事(トンジサ)として清に使臣として派遣されました。 1718年 礼曹参判(イェジョチャンパン)になりました。 1721年(景宗1年)戸曹参判(ホジョチャンパン)司直 延礽君(ヨニングン)の代理政聴に反対しました。 同年 金一鏡(キム・イルギョン)らの疏(ソ)と睦虎龍(モク・ホリョン)の告變(コビョン)事件が起き老論が排除され少論が復権すると礼曹判書を経て平安道観察使になりました。 1722年 左副賓客、兵曹判書、遠接使になりました。 1723年 右議政になりました。 1725年 領議政になりましたが老論の台頭で罷免されました。 1728年 少論の台頭で再び領議政になりました。 同年 李麟佐(イ・インジャ)の乱が起き、乱を平定した功績で英祖から奮武原從功臣(1等)を贈られました。 1729年 官職を辞職して領中樞府

へチ王座への道5話のあらすじと感想 해치 景宗が即位すると延礽君は王族の仕事に就いて密豊君は次の王座を狙って...

へチ王座への道5話 目次 [ あらすじ ] [ 感想 ] [ 関連記事 ] あらすじ 延齢君の死に続き、国王の粛宗が崩御しました。延礽君(ヨニングン)は民と一緒に父の訃報を嘆きました。 同じ日の司憲府(サホンブ)の門前。 「ハン監察の死に何も不審なところはない。なのにお前たちは何をしている。主上(チュサン)が崩御された今、朝廷は苦境に立っている!」 ウィ・ビョンジュは上司の死は殺しだったと訴えるヨジとアボンとチャンダルに向かって厳しく言いました。 「さぞや危うい状況でしょうね。老論の支持ではない世子が王になったのですから!」 ヨジは怒声を上げました。 「生意気な口を叩くな!お前、死にたいのか!」 ウィ・ビョンジュはヨジに掴みかかりました。 「私はしっかり目を開いて生きていきます。ハン監察を殺した奴を捕まえるまで追いかけます!」 ヨジは反発しました。  「こやつめ!」 ウィ・ビョンジュはヨジを押し倒しました。 「ヨジや~!大丈夫か!司憲府だと?お前らみたいなクズが法の番人だと?待ってろ!私は必ず司憲府に入る!その時に死ぬのは・・・!お前たちだからな!」 パク・ムンスは駆け付けてヨジを支えるとウィ・ビョンジュに向かって言いました。 ウィ・ビョンジュは兵士にヨジたちを追い払うように命じました。 ヨジとアボンとチャンダルは解雇されました。 王宮。 世子が国王となり、少論が国王の後ろ盾となったため、ミン・ジノンは老論の行く末を一人で案じていました。 部屋に延礽君(ヨニングン)が飛び込んで来ました。 ミン・ジノンは延齢君(ヨルリョングン)が密豊君(ミルプングン)に殺されたことを知っていました。 「延齢君が殺されたのか病死なのかは状況に応じて決めます。それが政治です。・・・我ら老論が決めます。我々は数百年にわたり血を流しながら国を守って来ました。君大監(クンテガム)に害は及ばないでしょう。王族ですから。しかし君大監のお仲間はどうなるでしょう。君大監が動かなければハン監察は死なずに済みました。違いますか?どうせなら王を目指されては?王になれば多少の力を得らるでしょう。お母上の身分は低くても君大監は王族ですから。」 ミン・ジノンは憤る延礽君を脅しました。 夜(雨)。 ヨジは「ハン監

へチ王座への道4話のあらすじと感想 해치 延齢君(ヨルリョングン)とハン・ジョンソクが密豊君(ミルプングン)の...

へチ王座への道4話 目次 [ あらすじ ] [ 感想 ] [ 関連記事 ] あらすじ ハン・ジョンソクは密豊君(ミルプングン)が科挙の替え玉の依頼者を殺害したことを告白しました。実際に替え玉受験生となった延礽君(ヨニングン)は証言をしました。ミン・ジノンは延礽君に「異母兄の延礽君が犯罪者となれば延齢君(ヨルリョングン)の名声が傷ついて延齢君は王になれなくなる」と言って脅します。しかし粛宗は延礽君(ヨニングン)を時期国王に指名することを計画しました。 夜、国王の粛宗(スクチョン)は大司憲(テサホン=長官)イ・イギョムに延礽君(ヨニングン)を次の王にするので支えてやって欲しいと遺言を密かに伝えました。 粛宗は老論(ノロン)で立場が危ういイ・イギョムに延礽君の後ろ盾となるように言いました。 「そちが延礽君(ヨニングン)を王にして老論の首長(スジャン)となるのだ。」 粛宗は密命を下しました。 朝のハン・ジョンソクの自宅。 司憲府(サホンブ)の監察ハン・ジョンソクは茶母(タモ)のヨジと夫人(妻)と部屋で話し合っていました。ハン・ジョンソクは反物屋のチャンから自分に宛てた手紙を手に持っていました。チャンは数年前から司憲府(サホンブ)に救済金の寄付をして、その資金が民の貧困救済に使われていましたが、今回はなぜか自宅に直接届けられたのでした。 昨夜(回想シーン)。 延礽君(ヨニングン)は涙を流しながら「私はこれ以上力になれぬ。お前がハン監察を守ってくれ」とヨジに言いました。 延礽君の部屋。 延礽君(ヨニングン)は自室で延齢君(ヨルリョングン)を推戴するミン・ジノンと、法の正義を貫くハン・ジョンソクのどちらに味方するか悩んでいました。 市場。 浪人生のパク・ムンスはヨジに「お前も義兄弟」に入れてやったと話しました。ヨジは延礽君(ヨニングン)が本気で義兄弟になるはずがないと思いました。そこに延礽君(ヨニングン)が偶然りがかりました。パク・ムンスは延礽君を食事に誘いましたが延礽君は冷たく断りました。ヨジは昨夜のことについて尋ねようとしましたが、延礽君は身分が低いヨジを見下して去りました。 朝廷の一室。 大司憲(テサホン=長官)のイ・イギョムは王の遺言を賜り延礽君の腹心になれば吏曹判書(イジョパンソ)の

仁元王后(イヌォンワンフ)は粛宗の三番目の正室で英祖の継母 女の中の堯舜と絶賛される

仁元王后(イヌォンワンフ) 仁元王后(イヌォンワンフ)または仁元大妃(イヌォンテビ) 韓国ドラマ ヘチ Youtube SBS公式動画 から引用しました。 概要 仁元王后(読み: イヌォンワンフ 韓国語: 인원왕후 英語: Queen Inwon)は朝鮮の王妃です。第19第国王である粛宗(スクチョン)の三番目の正室で、1687年11月3に生まれ1757年5月26日に亡くなりました。粛宗との間に子はいませんでした。彼女は21第国王英祖(ヨンジョ)の即位に多大な貢献をして命の恩人でもありました。そして思悼世子(サドセジャ)を自らが崩御するまで保護していました。もしも仁元王后がいなかったら密豊君(ミルプングン)李坦(イ・タン)が国王になっていた可能性がありました。 目次 [ 誕生 ] [ 王妃になった経緯 ] [ 時代背景 ] [ 後宮の年表 ] [ 息子 ] [ 人間関係 ] [ キャリア ] [ 性格 ] [ 逸話 ] [ 晩年 ] [ 著作 ] [ ドラマ ] [ 関連記事 ] 誕生 1687年11月3日(旧暦9月29日)に少論派の金柱臣(キム・チュシン 김주신 1661年~1721年)と嘉林府夫人林川趙氏(カリムプブイン イムチョン チョシ 가림부부인 임천 조씨 1660年~1731年)との間に生まれました。 王妃冊封の経緯 仁元王后は仁顯王后が亡くなって1年後に王妃に冊封されました。通常王妃が崩御すると3年は喪に服するのが慣例でしたが粛宗はこの掟を破って異例の早さで仁元王后を昇格させました。王妃選びの際に粛宗が一番気に入っていたのは孟萬澤(メン・マンテク 맹만택)の娘だったといわれます。しかしその娘の親戚の評判がよくなかったため、最終的に仁元王后に決まりました。 時代背景 この時期は李氏朝鮮の中でも最も党派争いが過激な時期でした。 1680年 南人派が追放されました。 1683年 西人派が老論派と少論派に分裂しました。 1689年 少論派が流刑になり南人派が政権を取りました。 1693年~99年 疫病や飢饉などで人口が大幅に減少しました。 1694年 少論派が政権を取りました。 1717年 老論派が優勢になりました。 年表 1670年 第一王妃の仁敬王后金氏(インギョンワンフキム

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