景宗(キョンジョン)
韓国ドラマ「トンイ」や「ヘチ 王座への道」などに登場する景宗(キョンジョン)は朝鮮後期の20代国王です。父は19代朝鮮国王の粛宗(スクチョン)で、母は悪女として知られる禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)です。景宗はドラマでは存在感の無い王子または国王として描かれていますが本当の姿を描こうとした作品は少ないように思います。景宗がこのように影の薄い国王として描かれる理由に、粛宗實錄や景宗實錄、英祖實錄などにて母のチャン氏を悪者に決めつけて淑嬪崔氏(スクピンチェシ)を正当化するように編纂されていることが考えられます(※筆者の見解です)。
景宗はドラマで描かれているような無気力無能な王ではなく、その逆で国や民のための政策を実行できる王でした!老論派の反対を押し切って量田事業を行い私腹を肥やしていた両班から税を徴収したのです!
目次
概要
景宗(キョンジョン 韓国語:경종)は名前を李昀(イ・ユン 韓国語:이윤)と言い、本貫は全州で字(あざな)は輝瑞(フィソ 韓国語:휘서)、諡号(しごう)は景宗德文翼武純仁宣孝大王(キョンジョントンムニムスニソンヒョテワン 韓国語:경종덕문익무순인선효대왕)です。父は粛宗(スクチョン)で母は禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)です。妃は沈浩(シム・ホ)の娘で端懿王后(タヌィワンフ 韓国語:단의왕후)です。継妃は魚有龜(オ・ユグ)の娘宣懿王后(ソニワンフ 韓国語:선의왕후)です。
景宗は年に1688年11月20日(旧暦 10月28日)に生まれました。父王の粛宗が崩御すると1720年7月17日(旧暦 6月13日)に即位し、1724年10月11日(旧暦 8月25日)に亡くなりました。
時代背景と筆者の解説
景宗がいた時代は、父王粛宗の治世の時に西人(ソイン)と南人(ナミン)という党が激しく争っていました。南人は景宗の母である張氏を宮中に送り粛宗の側室とし、王妃にすることで権力を得ようとしていました。西人(ソイン)は老論(ノロン)と少論(ソロン)に分裂しました。老論派は王妃と同じ派閥であった淑嬪崔氏の息子、延礽君(ヨニングン)を王に推戴することは当然の選択でした。
当時は疫病が流行っており王室の高貴な身分であっても病から身を守ることができませんでした。栄養に対する情報も無かったので信条を守るために肉食を避けるなどして病にかかりやすくなった貴族も珍しくはありません。妃や側室だけでなく生まれた王子も短命である割合が高かったのです。
また、司憲府(サホンブ)という官庁を見てもわかるように「噂だけで処罰できる法」が存在していました。そのため張氏が呪ったと後宮の妃たちが口を揃えて証拠をねつ造して騒ぎだてるだけでも政敵を葬り去ることができたのです。
当時の朝鮮国王は「党が国王の後ろ盾となること」が生存の必須の条件となっていました。党もまた国王を失えば次の国王を擁立することで政権を掌握することができました。政権を他の党に奪われることはすなわち粛清(死)を意味していました。そのためには党が支持する女性を国王の妻にして、その妃から産まれた王子を時期国王に推戴しなければなりませんでした。党が支援できる王子がいなければ、傍系の王を無理やりにでも推戴することが政権掌握の道となっていました。
景宗は母が賜死され、南人も粛清されて後ろ盾を失うと、少論の庇護を受けました。少論は政権を得ようと過激な弾劾を行い老論を粛正します。老論もまた対抗するため少論を激しく攻撃しました。老論の強みは側室ではなく正室の後ろ盾となり王妃や大妃の庇護下にあったことです。
子がいなかった景宗は昭顯世子(そひょんせじゃ)や麟坪大君(インピョンテグン)の孫などの王族から養子をとるか、粛宗の唯一生き残っている庶子の延礽君(ヨニングン)を後継者に指名する選択肢しかありませんでした。老論の重臣たちは揃って景宗を恫喝して次期王座を譲らせました。延礽君(ヨニングン)を世弟(セジェ)に指名することは、すなわち老論の世の中になることを意味していました。しかし仁元大妃は老論派で延礽君(ヨニングン)の守護者であったため自らの派閥に加わる王族を後継者(養子)にすることができなかったのです。
もしも時代が朝鮮の前期であったなら、兄弟であっても粛清して王権を得ることが「よくあること」でした。景宗(キョンジョン)が本気を出せばそういうこともできたはず・・・むしろ、しなければいけなかった立場でしたが、何かできない事情があったのでしょう。感情が豊かすぎる粛宗に兄弟ともに愛されていたことが一番影響したと言いたいところですが、母が父と老論に殺されたことで自分の脆弱な立場に怯えて老論の恫喝に負けてしまったといったほうが史実に近いかもしれません。
延礽君(ヨニングン)が世弟(セジェ)となることを認めてしまった景宗(キョンジョン)。確かに「自分だけは良い」かもしれませんが、妃は後宮での立場を失ってしまい死ぬまで無視されるという悲惨な目に遭いました。残念ながら、景宗には家族を守る力もなかったのです。確かに王としての器は病気のせいで損なわれていたのかもしれません。王が病気であることは珍しくもありませんでしたが、深刻な感染症で痛みがあると、国王の威厳どころか正気を保つこともままなりません。母が殺されたことで気力もなくしていたのでしょう。
景宗は定宗(チョンジョン)が太祖(テジョ)の圧力に屈して譲位した歴史や、母が賜死した燕山君(ヨンサングン)を連想して自分の境遇を重ねて考えなかったはずがありません。何せ燕山君は王座から引きずり降ろされたのですから、景宗は行動を起こせば自分も燕山君や光海君のようになるかもしれないと思ったはずです。この境遇から力を発揮するには、人であることを捨てる覚悟が必要だったことは言うまでもありません。
血で血を洗う党派争いの先にあったのは老論の一党独裁からさらに、その中の特定の氏族、安東金氏(アンドンキムシ)による独裁・・・そして、朝鮮の滅亡でした。限られた者だけが政治を行うと国がどうなるか、歴史が示しているようです。
生涯
1688年 景宗が誕生しました。
1689年 景宗は元子(ウォンジャ)に冊封されました。
母の張氏も王妃に冊封されました。
正妃の仁顯王后閔氏は追放(廢黜=폐출=ペチュル)されました。
これにより南人(ナミン)の李玄紀(イ・ヒョンギ)、南致薰(ナム・チホン)らが登用されました。
1690年 景宗は世子(セジャ)に冊封されました。
1694年 母の張氏が禧嬪(ヒビン)に降格され南人の閔黯(ミン・アム)金德遠(キム・ドクウォン)權大運(クォン・テウン)らが流刑・賜死となりました。老論の金春澤(キム・チュンテク)らと少論の韓重爀(ハン・ジュンヒョク)らの訴えにより王妃の仁顯王后閔氏(※ 老論派の閔鎭昌の妹)が復権しました。※ 甲戌換局といって仁顯王后が張禧嬪の呪いの噂を聞いたため、呪いにより病気になったと訴え、淑嬪崔氏も粛宗に張氏が呪っているという話を告発したのでした。粛宗は女官の英淑(ヨンスク)を処刑することで対処しました。(当時は噂だけで処罰することができる世の中だったので、この事件をでっち上げるには、仁顯王后と淑嬪崔氏の結びつきがかなり強固かつ命がけのものでなければ無理な話です。)
1701年 母の禧嬪張氏が賜死(ササ=사사)されました。張氏と和気をはかっていた仁顯王后閔氏も同年謎の死を遂げ35歳で亡くなりました。
1717年 父の粛宗が景宗の多病無子(病弱で子ができない病)を心配して密かに李頤命(イ・イギョム 老論派の重臣)を呼んで延礽君(ヨニングン)と延齢君(ヨルリョングン)のことを頼みましたが、延礽君(ヨニングン)を後継者に任命したことになってしまいました(丁酉獨對)。少論の尹趾完(ユ・ジワン)は丁酉獨對を「上と下が逆になっている(※ 上が老論になって下が粛宗になっている)」として厳しく批判しました。
世子であった景宗による世子代理聽政がはじまりましたが世子を支持する少論と延礽君(ヨニングン)を支持する老論の党争が激化しました。
1720年 代理政聴を行っていた景宗(キョンジョン)は老論の閔鎭厚(ミン・ジノン)や金昌集(キム・チャンジプ)らの反対を押し切って量田事業(土地の調査事業で光海君と仁祖と粛宗の時代に行われ、税収が上がる政策でしたがその分だけ両班の儲けが減ることを意味していました)を強行しました。
7月12日 粛宗が崩御しました。
7月17日 景宗は国王に即位しました。
1721年(景宗1年)建儲(ゴンジョ 건저 王位継承者を決めること)の議論が起きました。景宗は礼曹(イェジョ)の上奏に従い、老論の金昌集(キム・チャンジプ)、左議政の李健命(イ・ゴンミョン)らに任せて延礽君(ヨニングン)を世弟(セジェ)に冊封しました(景宗実録4巻)。趙聖復(チョ・ソンボク)の疏(そ、上奏のこと)に基づいて延礽君(ヨニングン)に代理政聴をするように求めましたが少論の反対により阻止されました。景宗(キョンジョン)の病気がますますひどくなり国の裁斷(さいだん 재단=チェタン)ができなくなると、権威が失墜しました。これを機に權臣(ゴンシン 권신 権力のある臣下)の専横と黨人(タンイン 당인 党人のこと)の陰謀がさらに酷くなりました。この年の12月に金一鏡(キム・イルギョン)らは代理政聴を求めた老論の李頤命(イ・イギョム)と金昌集(キム・チャンシプ)と李健命(イ・ゴンミョン)と趙泰采(チョ・テジェ)を追放して少論の政権を樹立しました。
1722年(景宗2年)3月 老論一派が景宗(キョンジョン)を殺害しようとしているとして睦虎龍(モク・ホリョン)が告變(コビョン 告発)しました。この事件で老論派が20人処刑され、30名が杖刑で死に、絞殺された家族は13人、流刑が114人、自害した婦女子が9人、連座させられた者が174人の大規模な処罰を受けました(辛壬士禍)。1721年と1722年の士禍で老論を一網打尽にした少論は政権を専横しました。この件で睦虎龍(モク・ホリョン)は同知中樞府事に昇格して東城君(トンソングン)の勳爵(フンジャク)が与えられました。
※ 英祖は即位後に睦虎龍(モク・ホリョン)らを処刑して報復しています。
この年に金壽龜(キム・スグ)と黃昱(ファン・ウク)らの上疏(じょうそ、上奏)により1717年に官職を剥奪された少論の領袖の尹拯(ユン・ジュン)と彼の父である尹宣擧(ユン・ソンゴ)の官職贈諡(グァンジクチンシ)により復権しました。また、この年の不作により年分事目(ヨンブンサモク 연분사목)を改正して全税率を下げて量田(ヤンチョン 양전 農地を測量して作付けを把握すること)に民怨(民衆の恨み)があるとし、これを是正しました。
同年
この年から景宗が崩御するまでの間、世弟(セジェ)となった延礽君(ヨニングン)が代理政聴しました。
1723年 命召通符(ミョンソトンブ 명소통부)を改造して西欧の水銃器(スチョンギ 수총기)を模造しました。また、觀象監(グァンソンガム 관상감)に人を送り西欧の問辰鐘(モンジンジョン 문진종)を製作させました。獨島(独島)が朝鮮の領土であることを示す内容を盛り込んだ南九萬(ナム・グマン)著の『藥泉集(ヤンチョンチプ 약천집)』を刊行しました。
1724年 書院(ソイン 書院制度による現代でいう私学で各地に多くあり扁額・本・奴婢や田結などが下賜され納税の義務が無く良民が院奴になることで兵役逃れの場所にもなっていました)に与えた田結(チョンギョル 전결 ここでは田畑という意味)の返還を議論しました。
景宗(キョンジョン)は世子の時からさまざまな圧力や侮辱を経験し、在位4年の間に党争が絶頂に達したため不運な生涯を終えました。
家族
- 祖父 顕宗・・・18代朝鮮国王
- 祖母 明聖王后金氏
- 父 肅宗(スクチョン 日本語:粛宗)・・・19代朝鮮国王
- 母1 仁敬王后金氏(インギョンワンフキムシ)・・・第一王妃
- 母2 (仁顯王后閔氏(イニョンワンフミンシ 韓国語:인현왕후 민씨 日本語:仁顕王后閔氏)・・・第二王妃
- 母3 仁元王后金氏(イヌォンワンフキムシ)・・・第三王妃
- 実母 禧嬪張氏(ヒビンチャンシ)・・・宮女→側室→正室→降格→賜死 南人派
- 異母弟 延礽君(ヨニングン)・・・英祖 20代朝鮮国王 側室の子
- 異母弟 延齢君(ヨルリョングン)・・・病死 側室の子
- 妃 端懿王后沈氏(タヌィワンフシムシ)・・・病死。
- 継妃 宣懿王后魚氏(ソニワンフオシ)・・・憤死し怨霊となって思悼世子(サドセジャ)に祟ったとも。
墓
景宗が登場するドラマ
- ヘチ 王座への道(2019年)
- 即位前後の景宗が登場します。
- トンイ(2010年)
- 少年時代の景宗が登場します。
関連記事
- ヘチ 王座への道 全話あらすじと感想
- 密豊君(ミルプングン)李坦(イ・タン)は昭顯世子の曾孫で実在した歴史上の人物-ヘチに登場する悪役の王子
- 延齢君(ヨルリョングン=연령군)は実在した粛宗の息子 母の顔も知らない寂しい青年
- ミン・ジノン(閔鎭遠 민진원)は実在した朝鮮の老論(ノロン)派の権力者
- 李光佐(イ・グァンジャ 이광좌)は科挙主席の文臣で景宗を支えた少論の重臣
- 李麟佐の乱(イ・インジャのらん) 少論と南人の過激派イ・インジャ(이인좌의 난)らが英祖を廃止密豊君を武力で擁立しようとした反乱
- 司憲府(サホンブ 사헌부)李氏朝鮮時代に実在した官庁についての解説
- 仁元王后(イヌォン王妃)は粛宗の三番目の正室で英祖の継母 女の中の堯舜と絶賛される
- 鞫廳(鞫庁=グクチョン)국청 朝鮮時代の特別裁判所の解説