延齢君(ヨルリョングン)
延齢君(ヨルリョングン 韓国語:연령군 旧字体:延齡君)は実在した歴史上の人物です。韓国ドラマ「ヘチ 王座への道」に登場します。彼は19代朝鮮国王である粛宗(スクチョン)と側室との間に生まれた息子で母を知らずに若くして世を去った可哀そうな王子様です。性格は暁の星のようであり誠実であったと粛宗実録64巻に書かれています。
目次
概要
延齢君(ヨルリョングン)は1699年6月13日に生まれ1719年10月2日に21歳という若さで亡くなりました。延齢君(ヨルリョングン)は朝鮮時代後期の王族です。粛宗(スクチョン)の第六庶子であり、榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ)の息子で、景宗(キョンジョン)、英祖(ヨンジョ)の異母弟です。興宣大院君(フンソンテウォングン)の(養子縁組による)家系上での高祖父にあたります。幼名は仁壽(インジュ)といい、名前は昍(フォン)、字(あざな)は文叔(ムンスク)、諡号(しごう)は孝憲(ヒョホン)です。
お母さんの榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ)は崔氏よりも10年前に粛宗の寵愛を受け入宮しました。延齢君(ヨルリョングン)は5歳のときに母を亡くしました。
延齢君(ヨルリョングン)は粛宗にとても愛されていました。
生涯
延齢君(ヨルリョングン)は1699年6月13日に朝鮮国王である粛宗と榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ ~1703年7月15日)との間に生まれました。延齢君(ヨルリョングン)が生まれた場所は景福宮(キョンンボックン 王宮)内にる後宮の住まい昌慶宮(チャンギョングン)の敷地内に粛宗が建立したと伝えられる集福軒(チプブクホン 집복헌)という場所です。年齢群神道碑には粛宗「第二」の息子と記されています。墓碑の建設を主管した大臣は老論派が中心だったので、南人派の景宗の存在を消してしまいたかったと考えたのも無理はありません。
幼名は仁壽(インジュ)という名前が与えられました。
母は通政大夫朴孝健(パクヒョゴン)の娘で宮に内人(ナイイン)として上り、尚宮(サングン)だった1683年に粛宗の寵愛を受け、1698年に懐妊すると正四品である淑媛(スグォン)という身分を与えられました。延齢君を出産した朴氏は1699年に端宗(タンジョン)の復位を記念して正二品に昇格ました。1701年に貴人(クィイン)となり、1702年には正式に王妃に冊封されると同時に正一品になり䄙嬪(ミョンビン)になりましたが1703年に亡くなりました。
延齢君(ヨルリョングン)が母の葬儀の前に冊封された理由は、喪主なのに幼名を旁題(バンツェ)に記すことはできないからと粛宗は言いました(粛宗実録38巻)。
延齢君(ヨルリョングン)は母の顔を知らなかったので、自分が死んだ時には母のそばに埋葬して欲しいと遺言を遺していました。
父王の粛宗は母の死を理解できずに捜し求める延齢君(ヨルリョングン)を哀れに思い臣下の前で涙することもありました。延齢君(ヨルリョングン)5歳の時に母が亡くなったため、粛宗は急いで彼を君(クン)に冊封しました。君(クン)の称号は6歳以降に封じるのが通例であったので大臣は反対しましたが粛宗は反対する大臣を処罰して冊封を強行しました。
延齢君(ヨルリョングン)の冊封に官僚たちは翌年も反対していました。1704年には左議政の李畬らや司憲府(サホンブ)は早すぎる冊封を取り消して宗親から除籍するように批判しましたが粛宗は反論しています。1705年には趙道彬が幼い延齢君(ヨルリョングン)が肅恩する際に庭に長時間跪かせたまま敎旨を伝えに行かなかったため正郎職を罷免されました。このとき粛宗は寝殿の中から掖庭のすべての人が恐れるほどの怒鳴り声をあげたと書かれています。この趙道彬(チョ・ドヒョン)は老論派4大老の1人で後に兵曹判書を経て1726年(英祖2年)に右議政になった人物ですがその年のうちに罷免されました。
粛宗の寵愛は格別で延齢君(ヨルリョングン)は景宗や英祖よりも愛されました。1704年に6歳で宗親府(ジョンチンブ)堂上官(タンサングァン)の位を授けられ1706年に冠禮(元服)を行いました。同じ年、延齢君(ヨルリョングン)は粛宗と王族と臣下が余興を楽しむ宴に出席しました。
結婚
1707年に7歳で金東弼(キム・ドンピル)の娘と結婚(嘉禮)を挙げました。結婚は臨昌君(イムチャングン)李焜(イ・コン ※昭顯世子の息子で密豊君の父です)らが主管しました。しかし郡夫人キム氏は婦人の病気を患っており子を作ることができませんでした。
1708年、粛宗は貞明公主が所有していた二百軒(※ 軒の単位がわからず)にのぼる邸宅を購入し延齢君(ヨルリョングン)に下賜(かし)しました。その邸宅は、もともと延礽君(ヨニングン)が買う予定の家でした。延齢君(ヨルリョングン)の邸宅は2,226軒の広さがあり、177軒の瓦家で、銀貨3,325両の購入費用がかかりました(粛宗実録46巻)。
(※ 参考までに1467年の李施愛の乱では一等功臣でボーナスが銀50両、二等で25両、三等で10両です。)
1711年11歳の時に延齢君(ヨルリョングン)は天然痘を患い苦しみましたが回復しました。この年に粛宗は延齢君(ヨルリョングン)に王子師傅(ワンジャサブ 왕자사부 従9品の先生)を付けて学ばせました。
1713年 延礽君(ヨニングン)は延齢君(ヨルリョングン)と複数の宗親とともに粛宗に尊號(そんごう)を受けるように上疏(じょうそ、上奏)しましたが粛宗は許す理がないとして断りました。
1714年 進宴禮に出席し延礽君(ヨニングン)の演奏の次に井邑慢機(チョンウプマンギ)を演奏しました。
1715年、延齢君(ヨルリョングン)の出閤の際に、臣下で持平(チピョン)の趙榮福(チョ・ヨンボク)は邸宅の高額な補修費用について主管する役人が中楼の礎を白金40両で購入したことを批判しました。「過去に漢文帝が露臺の百金が中人の10世帯分の財産になるほど高額であることについて憂慮(中止)した」古典になぞらえて「どうして中人の4世帯分の財産にもなる礎を新しくする必要がありましょうか」と批判しています(粛宗実録56)。ここでは粛宗が王宮よりも延齢君(ヨルリョングン)の邸宅の補修を優先したことが非難されています。
キャリア
出閣(私邸に引っ越)して以降は粛宗の特命で1715年に宗簿寺都提調(ジョンブサトジェジョ)に任命され、1716年には都摠府都摠官(ドジョンブドジョングァン)を兼任しました。1717年に粛宗の温泉療養に随行(扈從)しました。1718年に司饔院都提調(サオンウォンドジェジョ)を兼任しました。1719年には異母兄の延礽君(ヨニングン)と一緒に父王の粛宗に耆老所(ギロソ 高齢で高い身分の者が入る慰労組織)に入るよう勧めました。延齢君(ヨルリョングン)は私弟(사제 ※私邸という意味かと思います)に住みましたが民に迷惑をかけることはなかったといわれます。
延齢君(ヨルリョングン)は密豊君(ミルプングン)のように清国に行ったり長旅をするような官職に就くことは無かったのではないかと思います。
最期
1719年、病気の父を看病しつつも自らも病に伏せました。治療の効果もなく21歳という若さで私邸で急死しました。彼の訃報を聞いた粛宗は嗚咽してすぐにでも延齢君(ヨルリョングン)のもとへ駆け付けようとしましたが、臣下に反対されて行くことができませんでした。当時世子(セジャ)であった景宗(キョンジョン)は臣下の反対を押し切って異母弟のために尊賢閣(ジョンヒョンガク)に出て親臨(チンリム ※推察するに大規模な葬儀)を強行しました。臣下は失意の粛宗に親臨をやめるように訴えました。景宗は10月3日に擧哀(ゴエ 鳴き声を上げる儀式)し、祭文(チェムン=さいぶん)を読み異母弟への友愛を示しました。粛宗はこの句を建てて哀悼しました。
景宗が詠んだ文は實錄によると次の通りです。
呼之不應、漠漠無聲、已矣於世、空想形儀。居諸如流、卽山有期。衿陽一夕、月色千秋
葬儀は金演(キム・ヨン)が主管しました。それは夫人が金演の從孫女だったからです。
死後
延齢君(ヨルリョングン)の遺言通り、亡骸は母の近くに埋葬されました。延齢君(ヨルリョングン)に孝憲(ヒョホン)の諡号が与えられました。延齢君(ヨルリョングン)に相続者がいないことを哀れに思った粛宗は、1719年に密豊君(ミルプングン)の息子のうち次男の尙大(サンテ)を延齢君の養子にしましたが後の反乱で連座させられました。墓石の碑文は王族の西平君李橈(イ・ヨ)が書きました。墓地の碑文は玉吾齋(オ・ヒジェ)こと宋相琦(ソン・サンギ 老論派)が書きました。神道碑文は右議政の李頤命(イ・イミョン 老論派)が書きました。句(文)は趙泰耉(チョ・テグ 少論派)が書いて閔鎭遠(ミン・ジノン の老論派)は石に内容を刻みました。
1725年、妃の商山郡夫人金氏が29歳で亡くなりました。
英祖は延齢君(ヨルリョングン)との友愛が厚かったため、よく延齢君(ヨルリョングン)の墓参りに行きました。英祖は実録の中で早くに亡くなってしまった延齢君(ヨルリョングン)について悲しみ、自分の境遇を孝宗(ヒョジョン)に重ねていました。そして孫の正祖(チョンジョ)もまた延齢君(ヨルリョングン)に敬意を表しました。
1727年に昭顯世子(ソヒョンセジャ)の4第孫で密豊君(ミルプングン)の次男李尙大(イ・サンテ)が商原君に封じられましたが、李麟佐(イ・インジャ)の乱で密豊君(ミルプングン)が担がれたため連座させられ縁組が解消されました。そのため、1777年、正祖(チョンジョ)は洛川君(ノクチョングン)李縕(イ・ウン)を延齢君(ヨルリョングン)の養子としました。李縕(イ・ウン)は宣祖(ソンジョ)の6第孫です。しかし彼もまた息子ができずに亡くなりました。結局のところ、延齢君(ヨルリョングン)の家系を相続したのは思悼世子(サドセジャ)の庶子、恩信君(ウンチングン)李禛(イ・ジン)でした。
恩信君(ウンチングン)李禛(イ・ジン)の子孫は興宣大院君(フンソンテウォングン)です。彼の家系は祖先を思悼世子(サドセジャ)としていましたが、20世紀になり延齢君(ヨルリョングン)が始祖であることを認めました。
家族
- 祖父 玄宗(ヒョジョン)
- 父 粛宗(スクチョン)
- 母 䄙嬪朴氏(ミョンビンパクシ)
- 実兄 李節
- 異母兄 景宗(キョンジョン
- 異母兄 英祖
- 妃 商山郡夫人商山金氏
- 長男 商原君李糿(※)
- 密豊君の次男で養子になったが、臣下とともに事件を起こし流刑となり19歳で亡くなりました。
- 次男 洛川君李縕(※)
- 李埰の息子だが正祖(チョンジョ)の命令によって養子になりました。
墓
延齢君(ヨルリョングン)のお墓は1967年に墳墓が移設され、現在はソウル市にあります。
- 延齢君(ヨルリョングン)の墓(ソウル特別市有形文化財第43号)
- 史跡の名称 延齡君神道碑(연령군신도비)
- 住所 공릉동230-1 地陸軍士官学校内
墓碑には「王子延齡君贈諡孝憲公神道碑銘」と書かれており延齢君(ヨルリョングン)の墓碑が建てられた理由と品性や孝行などについて記されています。大きな龜趺の上に黒の大理石が立てられ、上には花崗岩でできた屋蓋形蓋石が載せられています。日付は「崇禎戊辰祈願後九十三年庚子三月日立(1720年)」と書かれています。
延齢君(ヨルリョングン)が登場するドラマ
上掲の続きの場面
「ヘチ 王座への道」ではノ・ヨンハクという俳優さんが延齢君(ヨルリョングン)を演じています。ノ・ヨンハクは「師任堂(サイムダン)色の日記」でラド役や、「火の女神ジョンイ」で光海君(クァンへグン)の少年時代を演じています。数々の時代劇で主人公などの少年時代を演じている元子役スターといえましょう。彼が演じる延齢君(ヨルリョングン)は兄思いで心優しく、すぐにでも散ってしまいそうな花のように儚げで、それでいて愛らしいです。
考察
粛宗(スクチョン)が延齢君(ヨルリョングン)を大変溺愛していたことから、王位継承者とみられていた可能性があります。粛宗の正室との間には公主しか誕生しなかったため、息子が生まれて初めてキム氏を正室にしたことからも、正当な王位継承者が複数誕生することが待ち望まれていました。このことから粛宗は韓国ドラマの「トンイ」のように崔氏だけ一途に愛していたということではありません。お母さんが貴人になった年(1683年)は崔氏が貴人となった年(1693年)よりも10年早いです。しかし王子を産んだのは崔氏のほうが先でした。粛宗は側室が王子を産んで初めて愛人を正一品に昇格させる習慣があったようです。ですが、愛人と正妻は別で、やっぱり後宮は身分が第一だったようで景宗を仁顯王后(イニョンワンフ)の養子にして身分を高めなければ正統とは認められませんでした。英祖は延齢君(ヨルリョングン)より5歳年上です。ややこしいですが、この時代はみんな早死にしていますので、疫病が流行っていたのでしょう。三人の王子の中で最も愛されていたことから、幼い頃の性格もなかなかよかったのではないかと思います。即位後の英祖(ヨンジョ)の冷酷さを見てわかるように、異母兄のヨニングンは性格にかなり偏りがあって愛嬌が無かったのかもしれません。
そういえば「神道碑」で思うことは、日本の「神道」と宗教が何となく似ている気がしますよね。亀石なんかも飛鳥時代の日本のお墓とイメージの源泉がよく似ています。古代の鳥居もそっくりだったりします。あの「鉄の王キム・スロ」で伽耶(カヤ)国が行っていた儀式がまさに日本の教科書に載ってる卑弥呼を連想してしまいます。確か「朱蒙(チュモン)」にも巫女の女性が国の行く末を予言していましたね。朝鮮の神道は巫堂(ムーダン)と呼ばれる巫女があれこれ怪しげな儀式を行い儒教と並んで民間の信仰が続いてきました。神道のルーツが古代の朝鮮、その起源をたどれば中原にあったことは容易に想像がつきます。
日本の神道が朝鮮のそれよりも盛り上がりを見せて大フィーバーしたのは、自分や集団の欲望を神に祈って叶えてもらうという宗教が当時は神道以外に無かったからというのが実情ではないかと思います。仏教の本質は修行(努力)による人格向上ですから現世利益を祈るものではありません。儒教も祖先を敬って人格向上の勉強をする宗教ですから、願望を祈るものではありません。日本は歴史の途中で仏教が神道と混同されて現世利益を祈るインチキでおかしなものに変質してしまいました。一番古い宗派でさえも加持祈祷に変質しちゃってますから政府が日本から仏教をなくそうと考えたのも無理はありません。それを明治政府は分離して人々の頭の中身を直そうとしたのでしょう。今のところ本来の仏教に近いのは上座仏教くらいしかありません。残念ながら廃仏毀釈の結果、原典に戻るどころかかえって西方の宗教とごちゃ混ぜの宗教が増えてしまいました。それらと比べると、神道は新羅や高麗などに起源があり、渡来して以降は割と純朴に発展してきたのではないかと思います。神道の信仰は古代朝鮮や大陸の国々がそれぞれの国で祈りを捧げたのと同じで、朝廷が地方を征服していく過程で各地の先住民族の宗教と結びついて(大抵はやられたほうが悪役となって)ストーリーが作られた宗教です。
発音はヨンリョングンかヨルリョングンか?
NHKでは「ヨルリョングン」と明記
延齢君の発音について。ハングル文字では연령군(ヨンリョングン)であることが示されていますが、韓国ドラマ「ヘチ 王座への道」の劇中では明らかに「ヨルリョングン」と発音されています。NHK BS プレミアムの登場人物の紹介ページや日本語字幕、日本語吹き替えでは確かに「ヨルリョングン」と言ってます。ドラマの中でも韓国の役者さんが「ヨルリョングン」と言っているように聞こえます。日本語で両者の発音がまったく違うために戸惑ってしまいますね。韓国語では「リョ」と言う時の下の位置や力の入れ具合が日本語とは異なるために「ン」が脱落して「ヨルリョングン」となってしまうのだと思います。
国王になれなかった原因
延齢君(ヨルリョングン)が粛宗の後継者でありながら王位を継げなかった理由について考えたいと思います。まずはお母さんの死亡時期についてです。側室の榠嬪朴氏(ミョンビンパクシ)が亡くなったのは1703年ですから中殿(チュンジョン)に昇格して王子の後ろ盾になることはできません。第二王妃の仁顯王后(イニョンワンフ)は1701年で崩御しています。第三王妃の仁元王后金氏(イヌォンワンフキムシ)には子がいなかったのですが英祖は養子になりました。仁元王后の父は少論派の金柱臣という人物で権力の中心に入らないように「細~く長~く生きたい人」でした。その国では王子が国王になるには父王の正室である王妃の庇護が必要不可欠でした。なぜなら儒教は「父母を敬う宗教」です。当然、国王の父と母を敬う儀式が付きものですから、母の身分が低くては儀式は務まりません。
仁元王后は英祖の母の崔氏と親しかったといわれており、崔氏からの恩や義理を守るために延礽君(ヨニングン)の後ろ盾となったのでしょう。重臣たちから見れば、延齢君(ヨルリョングン)には後ろ盾がいなかったので下手に支持すると敵対政党が延礽君(ヨニングン)を支持するため勝ち目が無くなってしまいます。仮に老論派が延齢君(ヨルリョングン)を支持したとすれば、少論と南人の生き残りは当然のように延礽君(ヨニングン)を支持して政権を獲得することでしょう。そうなれば老論派が大量粛清されてしまうのです。ですから老論派には延礽君(ヨニングン)を支持するしか道がなかったとも考えられます。
しかし、もしも景宗の崩御時に延齢君(ヨルリョングン)が生きていたとしたら23歳です。長生きしていれば国王になれる可能性があったといえます。しかし、延齢君(ヨルリョングン)という人は粛宗や景宗、英祖に愛されるほど「政治に適さないほど無垢な人物」であったのかもしれません。無論、本人がそのように芝居をしていた可能性もあります。あるいは急死するほど病弱で薄幸そうだったのかもしれません。
参考文献
このページは筆者が何日もかけて翻訳しているので翻訳内容や発音等、時折間違っていることがあります。
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