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閔鎭遠(ミン・ジノン 민진원)は実在した朝鮮の老論(ノロン)派の権力者

閔鎭遠(ミン・ジノン)

閔鎭遠(ミン・ジノン)

閔鎭遠(ミン・ジノン) ヘチ(韓国ドラマ)EP2 SBS公式動画より

概要

閔鎭遠(ミン・ジノン 韓国語: 민진원 1664年~1736年)は李氏朝鮮時代の第19代国王粛宗(スクチョン)から第21代国王英祖(ヨンジョ)の時代に活躍した権力者です。

彼は閔維重(ミン・ユジョン 1630年~1687年)の次男で老論(ノロン)の最高権力者である仁顯王后(イニョンワンフ)の兄です。粛宗(スクチョン)の義理の弟です。高名な朝鮮の儒学者、宋浚吉(ソン・ジュンギル 1606年~1672年)の孫です。

閔鎭遠(ミン・ジノン)は妹の仁顯王后(イニョンワンフ)が家族とともに一度失脚したため、敵対勢力である南人を憎み、西人から分裂した少論(ソロン)と激しく戦いました。英祖(ヨンジョ)は閔鎭遠(ミン・ジノン)に少論の領袖である李光佐(イ・グァンジャ)と和解するようにすすめましたが閔鎭遠(ミン・ジノン)は断固拒否、決して妥協しませんでした。英祖(ヨンジョ)12年(1736)年、ミン・ジノンは亡くなりました。

目次



キャリア

序盤

1689年 政変が起こり妹の仁顯王后(イニョンワンフ)は失脚・幽閉されました。

1691年 ミン・ジノンは科挙を受け合格しましたが妹が幽閉されていたため登用されませんでした。

1694年 甲戌獄事で張禧嬪(チャンヒビン)が降封されると仁顯王后(イニョンワンフ)が復権しました。

1695年 弘文館(ホンムングァン)の検閲(正九品)として32歳の年に初めて登用されました。

1696年 世子侍講院(セジャシガヌォン)の兼說書(キョムチョルソ 正七品)に任命されましたが戚臣(外戚の臣下)という理由で解任されました。

1607年 科挙の重試の乙に合格しました。

李光佐らとともに弘文錄(ホンムンノク)の修撰(スチャン 正六品)に登用されました。

1698年に兵曹正郎(ピョンジョチャンナン 正五品)に任命されました。司憲府(サホンブ)持平(チピョン 正五品)を務めました。

1701年に司僕寺正(サボクサジョン 従三品)に任命されました。司憲府(サホンブ)の執義(チプウィ 従三品)を務めました。

1703年 全羅道観察使に就任。忠淸道監賑御史(チュンチョンドカムチヌォサ, 民の救済職)に任命されたときに地方の窮状を知り、書院の建設を抑えるように上疏(じょうそ、上奏)しました。

その他司諫院の正言(チョンオン 正六品)、副校理(プキョリ 正五品)など要職を歴任し老論の論客として少論の儒者で精神的な指導者の尹拯(ユン・ジュン)や朴世采(パク・セチェ)らを攻撃しました。

編修官(ピョンチュグァン)、水原府使(スウォンブサ)、なども務めました。

1705年に政敵で張禧嬪と連座した少論の南九萬(ナム・グマン)の減刑を上疏(じょうそ、上奏)し成功しました。

1706年 平安道觀察使(ピョンアンドドカムチャルサ)となりました。ミン・ジノンは江華島(カンファド)の行政区域を改良して閑農期に住民に堤(つつみ)を建設させて土地を干拓して分け与えるなどしました。江華島(カンファド)の城門を建設しました。

1712年に謝恩副使として清に行きました。

堂上官時代

以降は堂上官(タンサングァン)に昇進して全羅南道觀察使(チョルラドカムチャルサ)、工曹参議(コンジョチャミ)、同副承旨(トンブスンジ)、參贊官(チャムチャングァン)、右副承旨(ウブスンジ)、成均館(ソンギュングァン)大司成(テサソン 正三品)を経て礼曹参判(イェジョチャムパン)、同知義禁府事(トンジウイグムブサ)、工曹参判(コンジョチャムパン)、開城(ケソン)留守(ユス)を歴任し老論の中心人物として活躍しました。その後、漢城府(ハンソンブ)左尹(チャユン)を務めました。

1715年、家禮源流の刊行をめぐって老論と少論の対立が激しくなり、ミン・ジノンは老論派の鄭澔(チョン・ホ 1648年~1736年)をかばって一時失脚しました。

1716年、老論が盛り返すと平安道の試官となりました。

1718年、ミン・ジノンは礼曹判書(イエジョパンソ)として登用され量田勾管堂上を兼任しました。同年、奏請使となり清(シン)の燕京(ヨンギョン)に行きました。

1719年、江華勾管堂上を務めました。

政治の中枢へ

その後は二品に上り、刑曹判書(ヒョンジョパンソ)、知中枢府事(チチュンチュブサ)、工曹判書(コンジョパンソ)、礼曹判書(イェジョパンソ)、内医院(ネイウォン)提調(チェジョ)、知敦寧府事(チドンニョンブサ)、吏曹判書(イジョパンソ)、戸曹判書(ホジョパンソ)、判義禁府事(パニグムブサ)などを歴任しました。

景宗時代

1720年に粛宗(スクチョン)が崩御すると、景宗の叔父(景宗はイニョン王妃の養子となっているので)として政治の実権を握り老論の領袖(りょうしゅう)となりました。

1721年に工曹判書でありながら實錄廳總裁管(実録庁総裁官)を兼任して粛宗の實錄(実録)の編纂に加わりました。ミン・ジノンは景宗が病弱で世継ぎができないことを指摘すると延礽君(ヨニングン)を世弟(セジェ)にするよう上奏しました。ミン・ジノンは景宗と大臣の前で王の資質が無いと発言し王を侮辱しました。

1722年にサファ(士禍)が起こり、老論が陰謀を企てたとして処刑され、ミン・ジノンは星州(ソンジュ)に流刑になりました。

英祖時代

英祖(ヨンジョ)は少論と老論の政局のバランスを取るために老論を利用することを思いつきました。

1724年 少論は景宗の危篤を隠そうとしましたが国王は崩御しました。英祖(ヨンジョ)の即位とともに右議政に昇進し景宗實錄の編纂を主管しました。

1725年 英祖1年、ミン・ジノンは少論の柳鳳輝(ユ・ボンフィ)を弾劾して流刑にさせると同時に左議政に昇進しました。

1726年 中樞府領事(チュンチュブヨンサ 正一品)となりました。

1727年 順安に流刑され翌年釈放されました。

1728年 南人派の李麟佐(이인좌)らの反乱(イ・インジャの乱)が起き、英祖(ヨンジョ)はミン・ジノンを呼び戻しました。 1729年 領中樞府事(ヨンジュンチュブサ 正一品)になりました。

1730年 耆老所(ギロソ, 70歳以上の文臣が入れる名誉官庁)に入りました。

1733年 奉朝賀(ボンジョンガ)という名誉官庁に入りました。

1736年 英祖(ヨンジョ)に熙政堂の宴に呼ばれ少論の領袖李台佐と和解するように迫られましたが和解することなく亡くなりました。

隠居生活

ミン・ジノンは丹峴里(タンヒョンリ)に家を建て、南漢江(ナムハンガン)の岸に沈石亭という楼閣を建設して老後を楽しみました。

子孫

閔鎭遠(ミン・ジノン)の子孫は繁栄しました。閔台鎬(ミン・テホ 1834年~1888年, 開化派に殺された純明孝皇后の父)の実の息子の閔泳翊(ミン・イイク 1864年~1914年, 閔妃の親戚で政治家)、閔謙鎬の実の息子で閔台鎬(ミン・テホ)の養子、閔泳煥(ミン・ヨンファン 1861年~1905年)朝鮮王朝が崩壊した時の閔妃は彼の子孫です。

功績

ミン・ジノンは1706年(43歳の時)に海上防衛職に就いていました。ミン・ジノンは江華浦(カンファポ)の島々を干拓してその土地を民に分け与えました。1712年に清朝を訪朝しました。1718年に奏請使(チュンチュサ)として再び訪朝しました。

彼の甥は景宗でしたが国王の資質が備わっていませんでした。

著作

ミン・ジノンは文筆家でもあり松潭書院碑、高麗禮儀判書籠巖先生神道碑、驪陽府院君閔維重神道碑篆額などを書きました。「加足帝腹論」「丹巖奏議」「丹巖慢錄(自身の在職中の記録でタンアムはミン・ジノンの号)」「燕行錄」「閔文忠公奏議」を著し英祖(ヨンジョ)から文忠という諡号を賜りました。

閔鎭遠(ミン・ジノン)が登場するドラマ

感想

ミン・ジノンという老論派の領袖についての考察です。ミン・ジノンが生まれた当時は南人(ナミン)と西人(ソイン)が政治で激しく争っていました。そのうち西人は老論と少論に分裂し、南人の勢力はチャン・オクチョンの死刑とともに排除されました。ミン・ジノンが何を思っていたのかわかりませんが、政敵を処刑して絶滅させるという政策は朝鮮王朝の存続を危うくすることになりました。後の政権は南人を再起不能とするほど叩き潰し、国の弱体化を招いて朝鮮王朝が滅んでしまいました。

政治家が敵とその家族の命までも奪うということは、現代なら異常なことですが、19世紀頃まではそう言ったことが当たり前の世の中だったようですね。有能な人材までもが殺されてしまうものですから、国の力が弱くなるのは当然です。

粛宗と英祖(ヨンジョ)は何とか政権のバランスを取ることで王朝の存続を願っていましたが、思悼世子(サドセジャ)は聡明ではなかったため父に虐待され、正祖(チョンジョ)の時代には完全に老論の世の中になっていました。イ・サンが南人を復活させなかったことが王朝が滅んだ間接的な原因であるように思います。英祖(ヨンジョ)が思悼世子(サドセジャ)を厳しくしつけていたのは、王権を確実なものにしようと焦っていたのかもしれません。しかしそんな父の想いはボンクラ息子に理解できなかったみたいで・・・。正祖(チョンジョ)はいい線を行ってたのですが寿命が短すぎました。

思えば光海君(クァンへグン)を失脚させた仁祖(インジョ)あたりから雲行きが怪しかったのですが・・・。君主が病弱だったり幼かったり短命であったりして力を発揮できずに、勢道政治により王朝は終わってしまいましたね。

対立していても有能な人物が死ぬことで国が弱体化してしまったという出来事は朝鮮に限らず世界史でもよくあるパターンです。高い知性をもった有能な人材を使い捨てにすると国力が下がって敗北と植民地化を招いてしまう。今という時代がその延長線上にあることを自覚せずにはいられません。

筆まめなミン・ジノンにも思想的なこだわりがあったのかもしれませんが、彼にはそれ以上に南人派への恨みという個人的な感情がうずまき、その恨みの感情で仲間と結びついていたことは想像に難くありません。自分がいい思いをするために、政治思想を利用していたに過ぎないのではないでしょうか。思想というものは自分の志を果たすためのものではなく、栄華を得るための道具であったというほうが彼らの本音だったのでしょう。

朝鮮王朝は太祖(テジョ)の代に奸臣(開国功臣)が排除され王権が確立されましたが、その後は、特に世祖以降は臣下の後ろ盾なくして国王が政治を行うことができなくなりました。早くも3代目で本来の王国の理想的な姿は終わってしまったように思います。そういう意味ではイ・バンウォンという人物はなかなかの者だったのではないかと思います。こうした歴史の繰り返しで多くの王朝が滅んでいき、君主と政治を分離したほうがうまくいくと、世界の王国がやっとわかったのは80年前ですからね。

もしも「俺様私様の国」を作りたいなら実務は他人に任せたほうがいいのかもしれません!

※このページは韓国のwikipediaもしくはnamuwikiから一部引用しています。発音等の一部訳は筆者が自力でやっておりますので誤りがある場合はご容赦ください。

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