密豊君(ミルプングン)李坦(イ・タン)
密豊君(ミルプングン)李坦(イ・タン)は実在の歴史上の人物
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密豊君(ミルプングン)は本名を李坦(イ・タン)といって実在した李氏朝鮮の王族です。韓国ドラマ「ヘチ 王座への道」で1話から早くも残虐性を見せました。ドラマの中では朝鮮国王である粛宗(スクチョン)の次の王座を狙っている王子として描かれています。しかしながら英祖は即位すると密豊君に仕事を何度か与えており、ドラマのような酷い関係ではなかったことが伺えます。
目次
概要
密豊君(発音: ミルプングン 韓国語: 밀풍군 旧字体: 密豐君)こと李坦(発音: イ・タン 韓国語: 이탄)は1698年3月29日に生まれ1729年4月26日に亡くなりました。彼は朝鮮王国の王族で昭顯世子(そひょんせじゃ)の曾孫であったため朝鮮国王に推戴され首謀者と一緒に連座されました。享年31歳。
- 名前 李坦(イ・タン)
- 本貫 全羅北道全州(チョルラプクドチョンジュ)
- 幼名 垣(ウォン)
生涯
1698年(粛宗14年)3月29日(旧暦2月28日)密豊君(ミルプングン)は臨昌君(イムチャングン)李焜(イ・コン)と凝川郡夫人朴氏(ウンチョングンブインパクシ)との間に生まれました。
その後、密豐府正 (イルプンブジョン 韓国語: 밀풍부정)に封じられた後、正一品の興祿大夫 (フンノクテブ 韓国語: 흥록대부 )となりました。
密豊君(ミルプングン)の弟には密南君(ミルナムグン)李堪、 密原君(ミルウォングン)李墉、 密川君(ミルチョングン)李墰、 密平君(ミルピョングン)李㙫、密雲君(ミルウングン)李壎がいました。
1719年(粛宗44年年10月20日)21歳のときに息子(次男)の李尙大(イ・サンテ 이상대)が延齢君(ヨルリョングン 연령군)李昍(イ・フォン 이훤)の後嗣(こうし ホシ 후사)となり李糿(イ・グン)に改名ました。
1720年(粛宗45年6月8日)22歳のときに襲禮(スプリョ 습례)を執事しました。
1720年(粛宗45年6月9日)小斂禮(ソリョムリョン 소렴례)に殮襲(ヨンスプ 염습)を執事(スプサ 집사)しました。※小斂禮は崩御した粛宗の御体を服と布団に包む儀式です。
1720年(粛宗45年6月12日)大斂禮(デリョムリョン 대렴례를)を執事しました。※大斂禮は崩御した粛宗の御体を棺の中に入れる儀式です。
1723年(景宗3年)25歳の時に謝恩使として清国に行きました。
1726年(英祖2年)28歳の時に謝恩兼冬至使として清国に行きました。
1727年(英祖3年)29歳の時に英祖(ヨンジョ)は密豊君ら冬至使の三臣下を呼んで辨誣(ベンフ 認識が合ってるかどうか確かめること)に関することを尋ねました。
副使の鄭亨益(チョン・ヒョンイク)は謄本(仁祖に関する誤った記録が書かれた歴史書)が改善されなかったことで不善を行った自分を罰してくださいと謝罪しました。英祖(ヨンジョ)は三臣下の苦労を慰諭(いゆ 労うこと)しました。鄭亨益(チョン・ヒョンイク)は「明史」に書かれた仁祖(インジョ)についての事柄に誤りが多かったが、清朝になり明史の改変が行われたので仁祖(インジョ)のことについても修正してくれるように毎回頼んでいたが使行が改正することを許しませんでした。そして今回は清国の執政の常明という人にお願いしたら、少し直してくれたものの、まだまだ直らなかったと言いました。
そこで、英祖(ヨンジョ)は次のように尋ねました。
「黄河は清らかであったか?」
※筆者意訳 皇帝陛下はお元気だったか(健在でよく国が治められていたか)? という意味だと思います。
鄭亨益(チョン・ヒョンイク)は「黄河は澄んでいたものの、稱賀(恭賀の挨拶)を(清の宗主が)受けませんでした」と報告しました。鄭亨益は朝鮮の銀貨が新国に流れて行って、しかも鉛鐵(鉛鉄)多く混合しているがゆえに清国から唾罵されているので銀貨を清の国へ送らないようにしてくださいと国王に言いました。それに対し、英祖(ヨンジョ)は廟堂で稟處(ポムチョ 政治を司るところで処理)すると答えました。
さらに、密豊君(ミルプングン)は英祖にこう発言しています。
(※筆者の解釈 しかし銀の純度を高めたとしても銀貨の流出抑制に対しては特に効果が無いかもしれませんが、少なくとも朝鮮の貨幣の価値は高まり王国への信用も高まりますが、それが国益となるかというとどのみち朝鮮が不利になるよう清国が誘導してきたでしょう。現代の価値観から見ると決してレベルの高い発言ではなかったものの、当時としては彼の意見が採用されたら文明のレベルが上がる発言だったと思います。この発言で英祖や老論派は「密豊君は政治がデキる切れ者だ」と思って内心では危機感を覚えたり敵対心を抱いていたのかもしれません。)
礦銀雜鉛之弊、則議者以爲、定其字標鑄出、一如常平通寶之規、則可以防奸云この年、朝鮮の銀が宗主国の清国に密輸されていることが明るみとなり、しかもその銀貨に鉛が混ぜられていたため外交問題となりました。密豊君(ミルプングン)は銀貨に「標準」の規定を設ければ即ち偽造の防止になると英祖に言ったのでした。
(※筆者の解釈 しかし銀の純度を高めたとしても銀貨の流出抑制に対しては特に効果が無いかもしれませんが、少なくとも朝鮮の貨幣の価値は高まり王国への信用も高まりますが、それが国益となるかというとどのみち朝鮮が不利になるよう清国が誘導してきたでしょう。現代の価値観から見ると決してレベルの高い発言ではなかったものの、当時としては彼の意見が採用されたら文明のレベルが上がる発言だったと思います。この発言で英祖や老論派は「密豊君は政治がデキる切れ者だ」と思って内心では危機感を覚えたり敵対心を抱いていたのかもしれません。)
1728年(英祖4年3月15日)密豊君が30歳になった年、少論(ソロン)派で南人派からも支持を受けている李麟佐(イ・インジャ)と鄭希亮(チョン・フィリャン)らが結託して李麟佐亂(イ・インジャの乱=戊申政変)が起きました。首謀者の名前に密豊君(ミルプングン)の名がありました。密豊君(ミルプングン)は義禁府の牢屋に投獄され手足に枷がはめられました。
密豊君(ミルプングン)の弟、密雲君(ミルウングン)もまた陰謀を企てた罪で死亡しています。
1728年 英祖は投獄されている密豊君(ミルプングン)の枷(かせ)と杻(ちゅう 手かせ)を軽くするように命じました。
1729年4月13日、密豊君(ミルプングン)を連座させ籍を廃するように上奏がありましたが英祖は訴えを退けました。
1729年4月20日、密豊君(ミルプングン)を孥籍させるように上奏がありましたが英祖は訴えを退けました。
1729年某日 密豊君李坦は賜死したとも自害したともいわれますが記録にありません。
1755年、密豊君(ミルプングン)の弟と甥を絶島に流刑にするよう上奏があり、英祖(ヨンジョ)は訴えを認めました。
高宗元年(1864年)、密豊君(ミルプングン)は復位しました。
家族
- 曾祖父 昭顯世子(ソヒョンセジャ)李𣷪(イ・ワン)
- 曾祖母 愍懷嬪姜氏(ミンフェビンカンシ)
- 祖父 慶安君李檜(キョンアングン イ・フェ): 別名 石堅(ソッキョン)王子。韓国ドラマ「推奴(チュノ)」にも登場。
- 昭顯世子(ソヒョンセジャ)の第三男
- 祖母 盆城郡夫人許氏(ブンソングンブインホシ)
- 父 臨昌君李焜(イムチャングン イ・コン)
- 母 凝川郡夫人朴氏(ウンチョングンブインパクシ)
- 1663年-1721年
- 正室 郡夫人清風金氏
- 1687年-1704年
- 子がなかった。
- 側室 郡夫人林川趙氏(1688-1735)
- 長男 李觀錫 (1708-1750)
- 次男 次子: 李晉錫 (1715-1733)
- いったん延齢君(ヨルリョングン)の養子となり李糼と改名しましたが、連座して養子縁組を罷されました。
- 三男 李恒錫 (1716-1744)
- 密原君(ミルウォングン)李墉の養子となりました。密豊君の男系の子孫は19世紀前半まで続きましたが途絶えたようです。
- 四男 李謙錫 (1719-1755)
- 賜死
- 五男 李益錫 (1727-1755)
- 賜死
- 長女
- 趙夔命(チョン・ギミョン)と結婚しました。
- 二女
- 宋瑜(ソン・ユ)と結婚しました。
- 三女
- 林度遠(イム・ドウォン)と結婚しました。
- 四女
- 金商弼(キム・サンピル)と結婚しました。
墓
密豊君(ミルプングン)李坦(イ・タン)のお墓は次の場所に位置します。
住所
경기도 고양시 덕양구 대자동 산65-2京畿道 高陽市 徳陽区 大慈洞 山65-2
慶安君・臨昌君墓
慶安君の墓の右麓にあります。
地図
密豊君(ミルプングン)が登場する韓国ドラマ
- ヘチ 王座への道(2019年, SBS, 해치)
- テバク(2016年, SBS, 대박)チャン・グンソク主演
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考察
2019年11月、韓国ドラマ「ヘチ」を見て初めて密豊君李坦という人物に興味を持ちました。調べているうちに李坦(イ・タン)は仁祖以降の国王、つまり孝宗(1649年~1659年)顕宗(1659年~1674年)粛宗(1674年~1720年)景宗(1720年~1724年)英祖(1724年~1776年)の王統を本音では葬り去りたいという気持ちを抱いていたとしても不思議ではない人物であることがわかりました。現代の常識で考えると仁祖(インジョ)は李坦(イ・タン)にとって祖父の仇です。現代の価値観が当時の朝鮮に通用することはまず無いので、今の常識で過去を解釈することはまったくの誤りであるといえましょう。李坦(イ・タン)はドラマに描かれているほど愚かな人物ではないことが實錄を読むと推察できます。李坦(イ・タン)にとって、少論と南人と手を組むことは命がけの選択でしたが、果たして本当に盟約を結んだのでしょうか?今となってはわかりません。
生前の李坦は清国に使臣として二度ほど行ってます。朝廷での実務的な助言があったことから、何らかの役職に就いていたのかもしれませんが、実録には書かれていません。もしかしたら編纂にあたった臣下が記録に残さなかったのかもしれませんね。国王を補佐していたのに・・・この結末は可哀そうですね。
興味本位で調べる予定でしたが、実録まで読んで本格的になってしまいました。
参考・引用元
- 李坦(朝鲜) - 维基百科,自由的百科全书
- ナムwiki 밀풍군
- 朝鮮王朝實錄(韓国語サイト)http://sillok.history.go.kr: 粛宗46巻~
※翻訳は筆者が漢語と韓国語をもとに自力でやっていますので発音等をそのまま書き写されますご間違いがあるかもしれませんので転載禁止です。