石堅(ソッキョン)こと慶安君(キョンアングン)の生涯
韓国ドラマ「推奴(チュノ, 2010年)」でかわいい子役アイドルとして注目された石堅(ソッキョン)王子。一言も台詞が無くても守られるべき幼い王子として十分存在感を光らせていました。石堅(ソッキョン, 석견)は李石堅(イ・ソッキョン, 이석견)といって李氏朝鮮の昭顯世子(ソヒョンセジャ, 소현세자, 1612年~1645年)と愍懐嬪姜氏(ミンヘビン カンシ, 민회빈 강씨, 1611年~1646年)との間に生まれた三男、国王仁祖(インジョ, 인조)の孫です。
目次
時代背景
当時、李氏朝鮮は女真族(じょしんぞく, 韓: ヨジンジョク)による騎馬民族の帝国「大清国(ダイチン・グルン、しん)」の支配下にありました。清(しん)は1616年にヌルハチによって満州に「後金(こうきん)国」が建国され、現在のモンゴルと中国、周辺国(現在のロシアの一部~チベット・ネパール、スタン国の東部、朝鮮半島)を支配した王朝です。当時の首都は盛京(せいけい)、現在の瀋陽(しんよう, シェンヤン)で後に北京(ぺきん, ペェイヂィン)に移されました。新を建国したのは満州族の愛新覚羅氏(アイシンギョロシ)で後の満州国の国王の先祖です。
ヌルハチの第八子のホンタイジ(皇太極)は第二代皇帝でその名をスレ・ハンと言いました。ホンタイジの本名は今なお不明とされています。
後金国のホンタイジは朝鮮半島に侵入し、朝鮮国王の仁祖(インジョ)に服従を求めました。仁祖(インジョ)は当時の国王だった光海君(クァンへグン)をクーデター[仁祖反正(インジョパンジョン]により失脚させました。1627年、ホンタイジは3万の軍を率いて平安(ピョンアン)を占領し兄弟国の関係を結ばせました(丁卯胡乱)。ホンタイジはその後国号を清と改めました。
1636年にはホンタイジは朝鮮国と君臣関係を結ぶべく10万人の軍は漢陽(ハニャン, ソウル)まで達し、仁祖(インジョ)は江華島(カンファド)に逃亡しました(丙子の乱)。
三跪九叩頭の礼
1637年、ホンタイジに屈服した仁祖(インジョ)は三田渡(サムジョンド)で頭を地面に叩きつけて降伏し、息子の昭顯世子(ソヒョンセジャ)を人質に差し出しました。
清で過ごした昭顯世子(ソヒョンセジャ)とカン氏夫人
昭顯世子(ソヒョンセジャ)は1637年、夫人のカン氏と長男とともに瀋陽に人質として送られました。昭顕世子(ソヒョンセジャ)は朝鮮の人質や拉致された民を保護し、モンゴル語を覚えて西方遠征にも参加しました。彼は清が朝鮮を迫害しないよう努力しました。1644年から、8年間を清の北京で過ごしました。昭顕世子(ソヒョンセジャ)は北京での滞在の間、アダム・シャールらイエズス会宣教師らと交際し、新しい文物と西洋の文物を携えて1645年に朝鮮に帰国し、大臣らから親清と批判されました。昭顕世子(ソヒョンセジャ)はは帰国して3か月後に33歳で謎の死を遂げました。その亡骸には黒い斑点があり早く腐敗したそうです(ペストか?)。仁祖(インジョ)は世子の死後、一度も墓を訪れたことはありませんでした。夫人のカン氏はその2年後に35歳で亡くなりました。夫人は朝鮮の民が瀋陽で売られているのを見て夫とともに、民を買い取り農場で保護しました。その農場の経営を管理していたのがカン氏でした。カン氏は農場経営で得た資金を世子の活動資金に当てました。そのカン氏は後宮の廃貴人趙氏に濡れ衣を着せられ、仁祖(インジョ)はそれを利用し、趙氏を呪ったとして1646年に賜死しました。
石堅(ソッキョン)の生涯
石堅(ソッキョン)の父母、昭顕世子(ソヒョンセジャ)とカン氏夫人はそれぞれ16歳と17歳の時に結婚して翌年に第一子を受けました。二人はとっても仲がよかったそうです。カン氏は短い生涯で8人の子を産みました。9年間の人質生活の間に生まれた子は5人です。
石堅(ソッキョン)王子は1644年に清国の瀋陽、山海質館(人質用の館)で生まれました。これは昭顕世子(ソヒョンセジャ)が清国へ出発した年です。石堅(ソッキョン)王子は昭顕世子(ソヒョンセジャ)の子どもたちの中で唯一成人するまで生き延びた子どもです。
父の昭顕世子(ソヒョンセジャ)が亡くなり妻のカン妃も濡れ衣を着せられて死罪となった後もカン氏の血書が見つかったので三人の子どもを済州島へ流刑にしようという上疏(じょうそ、上奏)が起こりました。昭顕世子(ソヒョンセジャ)の息子たちは仁祖(インジョ)への脅威であると学者たちが訴えたのです(1646年)。三人の息子たちは1646年に済州島へ送られ、うち二人は風土病にかかって亡くなりました(ドラマ「推奴」でも描かれていました)。カン氏が呪った道具はなぜか夫人の死から1年後、王宮の中で突然見つかりました。
王位に就いた孝宗(ヒョジョン)は自らの正当性を破るような真似はできないものの、兄の昭顕世子(ソヒョンセジャ)の息子である石堅(ソッキョン)を守る努力をしていました。孝宗(ヒョジョン)は即位すると兄の息子の流刑地を1650年に江華島に移動させ治療を受ける権利を与えました。おかげで石堅(ソッキョン)は玄宗の代まで生き延び男系の子孫は朝鮮王朝の末期まで続きました(孝宗(ヒョジョン)の直系は途絶えました)。
石堅(ソッキョン)は1646年、2歳の時に連座で流刑させられ1656年(孝宗6年)に10歳の時に貴陽で放免されました。1659年(孝宗9年)に13歳で孝宗(ヒョジョン)により慶安君(キョンアングン)に冊封され正二品になりました(孝宗実録21巻、孝宗10年)。
逝去
1665年、慶安君(キョンアングン)は温泉に行って倒れ、亡くなりました。享年21歳でした。孝宗(ヒョジョン)は慶安君の禮葬を命じ医官(醫官)で御医の朴頵は彼を救えなかったとして投獄され竄配(流刑)に処せられました。
家が貧しくて葬儀が行えないことに玄宗は心を痛め、慶安君(キョンアングン)の子どもたちのために家を建てましたが後日、黄海道長淵(長淵)の屯田は粛宗に没収されました。
昭顕世子(ソヒョンセジャ)と夫人のカン氏の名誉は粛宗の代で回復されました。石堅(ソッキョン)の生前の品階は正二品、死後に正一品が追贈されました。
家族
祖父母
- 祖父: 仁祖(インジョ)(1595年~1623年) 16第朝鮮国王
- 祖母: 仁烈王后 韓氏(イニョルワンフカンシ)(1594年~1635年)
父母
- 父: 昭顯世子(そひょんせじゃ)(1612年~1645年)
- 母: 右議政(ウイジョン) 姜碩期(カン・ソクギ)の娘 愍懐嬪姜氏(ミンフェビンカンシ)(1611年~1646年) 仁祖の正室
兄弟姉妹
慶安君(キョンアングン)には二人の兄(贈慶善君李栢 享年12歳、慶完君李石磷 享年8歳)と三人の姉(慶淑郡主、慶寧郡主、慶順郡主)がいました。
- 姉 郡主(1629年~1631年)享年2歳
- 姉 郡主(1631年~1640年)享年9歳
- 姉 慶淑郡主(1637年~1655年)享年18歳
- 長兄 慶善君 李栢(李石鉄)(1636年~1648年)享年12歳
- 次兄 慶完君 李石磷(1640年~1648年)享年8歳
- 姉 慶寧郡主(1642年~1682年)享年40歳
- 姉 慶順郡主(1643年~1697年)享年54歳
妃
慶安君石堅の妃(妻)は陽川許氏の許確(ホ・ファク)の娘で盆城郡夫人(ブンソングンブイン, 1645年~1723年, 享年78歳)です。
子
長男は臨昌君(임창군, イムチャングン)李焜(イ・ホン)です。臨昌君は慶安君19歳の時の1663年に生まれ、1724年に61歳で亡くなりました。亡くなった年に正一品顯祿大夫を贈られています。慶安君臨昌君の妻は密陽朴氏の司憲府(サホンブ)将軍パク・ジンの娘ウンチョングン夫人です。臨昌君は夫人との間に6男5女をも受けました。慶安君の次男である臨城君 李熀(1665年~)は結婚後に8歳で早逝し子孫は遺されていません。慶安君の長男である臨昌君の子孫は、1733年に臨昌君の次男の密豐君の息子、商原君李糿(慶安君のひ孫)が賜死しました。しかし密豐君の三男の家系は1890年の豐善君まで男系の子孫が続いていたようですが、豐善君は5歳で亡くなったので夫人が王族の李建鎔から養子を貰ったようです。
- 臨昌君焜 密豊君(ミルプングン)李坦(イ・タン)の父
- 臨城君熀 夭折
孫
- 密豊君坦(ミルプングン タン) ※韓国ドラマ「ヘチ 王座への道」に登場
- 密南君堪
- 密原君墉
- 密川君墰
- 密平君㙫
- 密雲君壎
石堅(ソッキョン)の墓
石堅(ソッキョン)こと慶安君(キョンアングン)の墓は京畿道 高陽市 徳陽区 大慈洞(碧蹄面大慈2里)山65-1番地に埋葬されました。1684年に粛宗はブンソン君夫人の金海許氏の墓を隣に合葬しました。1686年、顯祿大夫(현록대부, ヒョルロクテブ) 兼 五衛都摠府 都摠管(오위도총부 도총관, オウィドチョンブ ドチョングァン)に贈職(증직)され追尊されました。1765年、長男の臨昌君の墓が彼の近くに移されました。
史跡 慶安君・臨昌君墓(경안군 및 임창군묘)
住所: 京畿道 高陽市 徳陽区 大慈洞 山65-2 경기도 고양시 덕양구 대양로 123-44
GPS: 37.696521, 126.880609
石堅(ソッキョン)が登場するドラマ
推奴(チュノ)での石堅(ソッキョン)の推定年齢は2歳(数え年で4歳)であったとおもわれます。