奴婢(ぬひ)
ここでは、朝鮮における奴婢について述べています。日本や中国の奴婢のことには触れていません。奴婢は韓国語で노비と書き、発音をノビと言い発音がたいへん不快な音階で差別心に満ちている感じがします。通俗的には「종(チョン)」と呼ばれていました。奴婢は過去の朝鮮(韓国~北朝鮮あたり)に家や官庁の雑務をこなしていた朝鮮の奴隷です。「奴(노)」という漢字はやっこ(男性の奴隷)を意味し、「婢(비)」はしたため(女性の奴隷)を意味していました。
目次
歴史
朝鮮にいつ頃から奴婢が存在したかは明らかではありませんが、古朝鮮の刑法に「他人の物を盗んだ者は、その家の奴婢とする」、扶余(プヨ)の法律には「殺人を犯した者の家族は奴婢とする」という記述ありました。鉄器文化の伝来とともに奴婢の労働力を用いて権力を強化するために重要な存在となりました。三国時代には戦争捕虜・犯罪者・債務者・貧困者が奴婢となる場合がほとんどでした。
奴婢は国と家に所有されるようになり官奴婢と私奴婢に区別されました。
奴婢のほとんどは農業で国や貴族の田荘で使役させられたものと考えられます。「新羅村落文書」によるとある村落の奴婢は5.6%であったと記録が残っています。
高麗時代の奴婢
高麗奴婢は、公奴婢と私奴婢に区分されたといわれます。公奴婢のほとんどが戦争の捕虜ではなく反逆者や謀反など重大な行為を行った者の家族と私奴婢が官没されることによって行われました。公奴婢は60歳になると使役を終えることができ無限に使役される私奴婢よりも軽いものでした。
法律
1388年8月、高麗王朝の王室と罪人貴族の私奴婢をまとめて12月に辨訟基準(奴婢の訴訟基準)を示達した後、1395年(太祖4)12月に奴婢辨定都監を設置し1397年7月に合行事宜十九条を発しました。
1405年(太宗5年)永爲遵守奴婢決折條目二十条を発令しました。奴婢の所有権争訟、相続、両丁の身分の判定など私奴婢の諸問題の解決に注力しました。
このように朝鮮初期に奴婢の管理を徹底したのは財政基盤の管理と私奴婢を公奴婢して新しい身分秩序を確立するためでした。
1406年には公奴婢を確保するため高麗末より作弊(不正)の温床だった寺社を整理し8万口を公奴婢にして、公認の寺を232寺とし、2,000寺は革去(撤去)して、典農寺、軍器監、內資寺、內贍寺、禮賓寺などに分属さ、濟用監の警備に補充しました。
続いて1419年(世宗1)と1424年の二度にわたって残りの寺社奴婢(사사노비)を革去(혁거)してほとんどを典農寺(전농시)に所属させた後、身貢(신공)を捧げさせ、他に水站(수참)の水夫(すいふ)、殘驛、轉運奴、急走奴、繕工監、諸色匠人、東西学堂、留後司、主君の及唱などに忠役させました。
このように朝鮮の初期に奴婢に関する制度を整えたのは、高麗末期に避役するために奴婢に偽装した良人を発見するためでもありました。軍役の負担者である良人の数を増やすため、良賤交婚所生子女について從賤法を適用し1414年(太宗14)から從父法を適用するようにしました。つまりこの時期に良人や士大夫(サデブ)の婢妻妾所生が多数あることに注目し、これを從良させるために良人以上の身分と丁人との間に生まれた子どもは父系に従って良人になれるよう制度化したのです。
奴婢從父法の施工に従い良人は増えましたが種種の弊害により1432年(世宗14)年にもとの法律である奴婢從母法(노비종모법)に戻しました。
1406年(太宗6年)に集計された全国の軍丁は370,365人です。1454年(端宗2年)には692,475人に増加しましたがそのうちの相当数がこのような施策によるものと考えられています。
公奴婢
朝鮮時代の奴婢は公奴婢と私奴婢に分けられました。公奴婢のうち内需司(ネスサ)所属の奴婢は王室の奴婢として宮奴婢(궁노비=クンノビ)と呼ばれました。所属する組織が官庁の場合、官奴婢(관노비=グァンノビ)と呼ばれました。駅や郷校のような特殊な行政機関の場合は驛奴婢(역노비=ヨンノビ)または校奴婢(교노비=キョノビ)と呼ばれました。公奴婢は16歳から60歳までの労働か現物による納貢(납공)が義務付けられました。公奴婢は選上奴婢(선상노비)と納貢奴婢(납공노비)がありました。都(首都)に住む奴婢はすべて選上奴婢でした。
私奴婢
公奴婢に対し、私奴婢は主人の家族として住み込みで働いているか、外で独立した家戸と家系をもって暮らしているかによって、前者を率居奴婢(솔거 노비=ソルゴノビ)または家内奴婢(가내노비=ガネノビ)、後者を外居奴婢(외거노비=ウェゴノビ)として区別されました。率居奴婢は蓄財の機会を与えられませんでした。私奴婢のうち外居奴婢(외거노비=ウェゴノビ)は奴婢全体の多数を締めました。外居奴婢の中には奴婢を抱える者や財を築く者もいました。
1,000を超える奴婢を所有していた者は、太宗(テジョン)の時代の洪吉旼(ホン・ギルミン=홍길민)、世宗(セジョン)の時代の安望之(안망지=アン・マンチ)の妻許(ホ)氏、文宗の時代の柳漢(ユ・ハン=유한)がいます。成宗の時代の永膺大君琰(영응대군 염=ヨウンテグン ヨン)は1万人もの奴婢を所有していました。
人身売買
奴婢は牛馬賣買限と同様に金銭で取引されました。主人は私奴婢をどのようにでも罰することができ、殺す時は官庁に届け出て許可を受ける必要がありました。
生活
奴婢は姓(苗字)を持ちません。名前だけであり、男性は頭髪を結わずに刈っており、女性は短いチマ(치마, スカート)を履いていました。奴婢を「창적(チャンジョク, 蒼頭赤脚=チャムドジョクガクが語源)」と呼んでいたのはここに由来します。
奴婢は犯罪を官庁に告発することができず、主人の犯罪を告発することは家門を侮辱することになったため絞首刑に値する重罪とされていました。
柳馨遠(ユ・ヒョンウォン, 유형원, 1622年-1673年, 朝鮮の性理学者)は「中国にも奴婢はあるが、すべて犯罪者に沒入(没入=陥る)された者か、自分の体を売って雇われた者だけであり、その族系によって代々奴婢となる者はいなかった。罪もない者を奴婢とする法律は過去に無く、罪を犯して奴婢となった者のフサ(후사=代を継ぐ子)まで罰を与えるのは不当であり廃止すべきだ」と述べています。
また、李瀷(이익, 1681年-1673年, 南人の儒者)も「奴婢という名前は、殷の時代から現れたはずなのに、箕子(きし=キジャ)は、その制度を模したものや殷の時代にも世傳の(代々続くという)規定はなかった。(中略)私たちの国のの秘訣は天下になかったものであり、一度奴婢にされると百世苦しみを受けることになる」と述べ廃止を訴えています。
奴婢毆家長條に至っても「만약 노비가 주인의 시키는 명령을 위범(違犯)하였으므로 법에 의거하여 형벌을 결행(決行)하다가 우연히 죽게 만든 것과 과실치사한 자는 모두 논죄하지 아니한다 若違犯敎令而依法決罰, 邂逅致死及過失殺者, 各勿論, 則其主擅殺奴婢者, 一依律文施行可也。」とあります。
(筆者の訳: もし奴婢が主人の命令に違反して思いがけなく殺した者=過失致死を犯した者はもちろん、主人を殺したとしても奴婢にも律と文という法律を施行することができ論罪しない。←ちょっと自信なし)
奴婢になる要因
反逆や謀反に関わった場合は法で罰せられて奴婢となります。
壓良爲賤(アプリャンウィチョン)
受領者が良民を殺すなどして強制的に跋扈(ばっこ、のさばる、横領)して奴婢にしました。鄕約という郷村の自治規約が施行されるに従いアプリャンウィチョンは減りました。
(筆者の訳:つまり漢字の通り、良民を賤民に貶めるということです。)
片親が奴婢である
片方の親が奴婢である場合、子も奴婢となります。朝鮮後期は父の身分とは無関係に母が奴婢の場合、子も奴婢になりました。
奴婢から脱する方法
奴婢が良人(양인=ヤンイン)に免賤(ミョンチョン)する方法の中には王国の既得権を脅かすほどの戦争や自然災害などの特殊な状況で、活躍して貢献する方法と、王国に多額のお金を寄付して貢献する方法がありました。しかし、そのような事件は一生に何度も起きなかったので、奴婢が免賤(ミョンチョン)される機会は閉ざされていました。
別の方法としては束伍軍(속오군=ソクォグン)に加勢する方法がありました。壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮侵攻)をきっかけに新設された束伍軍は兵農一致に従い普段は農業と武芸の訓練を行い有事の際には招集されて国の防衛に動員される徴兵制度として親子二代にわたり生涯軍役に服務すれば良人に免賤(ミョンチョン)することができました。ただし、給与は無く訓練も実費でした。粛宗7年にはその数が20万に達したりしたといいます。
奴婢の人口
高麗時代(1484年)、全国に奴婢は100万戸で340万人と集計されており、成宗の時の公奴婢(공노비)は35万余りで当時の全人口の10分の1に相当します。 また、このときハンミョンフェ(韓明澮)は公認のうち未推刷者(미추쇄자)が10万人おり、公私賤口(공사천구)の逃げて隠れて暮らす者は100万口としました。
ハンヨウング(한영국)は1609年の蔚山部戸籍の人口の47%が奴婢であることを確認しました。 ノジンヨウン(노진영)は1606年の山陰県戸籍で41%、1630年の同戸籍から34.5%、ハンギボム(한기범)は1606年の単聖賢戸籍でなんと64.4%に達する割合を確認しました。 かつて四方泊1690年の大邱部戸籍を介して確認した奴婢の割合は44.3%です。
逃亡奴婢に関する情報は、先に紹介したハンミョンフェの話が最初です。 1484年当時、彼は公奴婢合計45万のうち10万、22%が逃げているとしました。 1528年慶尚道安東府酒村(ジュチョン)の李氏両班家の戸籍から奴婢は51人、その中で3分の1である17人が逃げていました。 1606年丹城縣(단성현=慶尚道丹城県)で奴婢の逃亡率は51%でした。 奴婢が主人の収奪や虐待を避けて多く逃げていることを知ることができます。
逃亡奴婢の罰
酷使に耐えきれず逃げた場合、1049年(文宗3)に制定された法律に基づいて3回逃げたときジャジャヒョン(刺字刑)を加えて主人に返すようにしました。 このように私奴婢(サノビ)の所有者への服従はほぼ絶対的でした。
(※筆者のコメント:韓国ドラマ推奴(チュノ)にもその場面が描かれています。)
経国大典に至っては、逃亡した奴婢を捕まえていない官吏と、これを知っても、所管の人に通報しない者や近所の人は、制書違律(法律に反すること)で論罪し、もし逃げて僧侶になった者は、丈(杖、じょう)で100叩きの刑にした後、周辺の小さな町の奴婢とし、師れるのは、制書違律で論罪した後、還俗してチュンヨク(충역)します(※ 翻訳不能でしたが、おそらく奴婢に戻すという意味なのでしょう)。
奴婢の身分上昇
奴婢出身でも出世した場合があります。
高麗時代、高宗45年、私奴婢の李公柱(이공주=イ・ゴンジュ)を崔瑀(チェ・ウ=최우, 武人政権の将軍で時の権力者)が郎将(ナンジャン)としました。 昔の法制に奴婢は、たとえ大きな功があっても官職を祭需(祭礼)ではありませないことになっています。 ところが、チェ・ハン家は執政で安心を得ようと、家の私奴婢である「イ・ゴンジュ」と「チェ・ヤンベク(최양백=崔良伯)」、「キム・ジュン(김준=金俊)」を別将(ピョルジャン)にしました。
鄭忠信(チョン・ジュンシン)
鄭忠信は全羅道で奴婢として生まれまました。鄭忠信は16歳の時、壬辰(ジンシン)倭乱の際に従軍して日本軍の包囲を突破しました。国王の宣祖(ソンジョ)は彼を免賤(ミョンチョン、身分を開放)しました。その後、武科に合格して1621年に滿浦僉使に任命され北方を警備しました。1623年、安州牧使と防禦使(방어사)を兼任し女真族(ヨジンジョク)の酋長に会うこともありました。(中略)最終的に捕盗大将(ポドテジャン)と慶尚道兵馬節度使を兼任しました。
奴婢の姓
1894年甲午改革で、従来の身分制がなくなり名字の一般化が促進され、「1909年、日本帝国により奴婢は姓を持てるようになりました。奴婢は身元を隠せるように人口が多い姓を名乗るようになり、特定の姓に人口が集中することになりました。
奴婢の名前
朝鮮王朝実録には奴婢の名前が記録されています。カグジ、カドジ、カウンチョル、カジルドン・・・ケトン・・・マンドク(萬德)・・・。その中には姓を持つ者もいました。
奴婢出身の人物
- イ・ウィミン(李義旼)・・・~1196年。武臣政権のリーダー。高麗国王の毅宗を殺し、キョン・デスンの死後実権を握る。鄭仲夫(チョン・ジュンブ, キョン・デスンに殺された)の私兵として実力を発揮。崔忠献(チェ・チュホン)のクーデターにより死亡。
- キム・ジュン(金俊)・・・武臣政権のリーダー。チェ・ウに免賤される。
- チョン・ジュンシン(鄭忠信)・・・1576年 〜 1636年。武将。宣祖(ソンジョ)に認められる。
- チャン・ヨンシル(蒋英実)・・・科学者。世宗(セジョン)に認められる。
- 이난향(イ・ナンヒャン)・・・女性。
- チェ・ジェヒョン(崔在亨)・・・1860年~1920年。抗日独立運動家、軍人。
- イ・ジェス(李在秀)・・・1877年〜1901年。官奴。
奴婢が主役で登場する韓国ドラマ
考察
私が韓国ドラマで奴婢という低い身分があり「卑しい身分」と言われていたのを目にしたのは「チャングムの誓い」が初めてでした。チャングムの誓いでは奴婢はメインで登場しなかったものの、何となく差別されている人がいるんだなと思う程度でした。それから何本も韓国の時代劇を見るうちに、奴婢という存在は両班(ヤンバン)の生活の世話をするために欠かせない人々であったことがわかりました。まさしく奴隷でありますが、同じ民族の同胞を奴隷化している描写は衝撃的でした。きっと実際はもっと汚くて酷い状態で心理状態や栄養状態もよくなかっただろうと思います。ドラマのような愛嬌のあるほがらかな奴婢ではなかったことも写真などから伺い知ることができました。
ドラマ「チェオクの剣」では剣士で元両班で家が取り潰しとなったソンベクという人物が隠れ住む人々のリーダーとなって蜂起を企てていた場面が描かれていました。「推奴(チュノ)」においても逃亡した人々が山に隠れ住む場面や僧侶になりすましている場面がありました。ドラマとはいえ、この二つのドラマからは特にリアルな奴婢像が浮かび上がってきます。実際は思想や感情すら抱く余裕もなかっただろうし優遇されていた立場の奴婢以外は考える知識も無かったと思います。
しかし一方で現代の奴婢像がドラマで作り上げられていることがアブナイ気がすると思いました。それは時代劇もそうですが、韓国の財閥という企業がその他大勢をこきつかって暴れている描写です。ニュースでも本物の動画が放送されることがあり、獣のごとく暴れる経営者を見て「ああ、ドラマ以上に酷いんだな」と思いました。やっぱりそういう映像を見ると、嘘でも一部の人は影響されて道理を無視して悪いことを真似するじゃないですか。その一部の暴力的な人が大勢を苦しめるのは歴史が証明しています。そういう傾向はよくないなと思います。
参考文献
奴婢の記述が多く、韓国語で書かれているためすべては理解できませんでしたがたいへん参考になるページでした。冒頭の画像はYoutubeにあった推奴(チュノ)から引用しました。