ドラマ医心伝心(名不虚伝, 명불허전)13話より
沙也可(さやか)=金忠善(김충선)
韓国ドラマ「医心伝心(名不虚伝, 명불허전)」に登場する日本人の武将沙也可(さやか、韓国語ではサヤガ)。日本史の教科書には出てこなかったけれども韓国では割と有名人で英雄らしいです。沙也可(さやか)は加藤清正の配下の将軍で豊臣秀吉による朝鮮出兵=壬辰(ジンシン)倭乱で朝鮮に投降し、朝鮮のために戦った武士です。
目次
沙也可(金忠善)
沙也可(サヤガ)こと金忠善(キム・チュソン, 김충선, 1571年(?)~1642年)は日本人で朝鮮に帰化した武士です。帰化後は字(あざな)を善之(선지, ソンチ)、本貫は金海金氏(キメキムシ)、号は慕夏堂(모하당, モハダン)としました。諡号は忠善公。日本の教科書には記述がなく、朝鮮王朝実録には二度名前が載っています。実際どのような人物であったか詳細な記述はありません。本名を岡本越後寿、出身地は和歌山という説があります。朝鮮国への貢献が評価され、朝鮮国王から金海金氏と両班の身分が贈られました。終戦後の1598年から10年間北方を警護しました。1624年、光海君(クァンへグン)に対するクーデターの仁祖反正では仁祖(インジョ)に味方をしました。隠居後は大邱(テグ)に住まいを移し妻と暮らしました。
金忠善は儒学を研究し、功績を讃えられて最終的に正二品正憲大夫に昇格しました。
韓国には7,000人以上の子孫がいるといわれます。
和歌山県には記念碑が立てられ日韓の友好の証となっています。
経歴
沙也可は加藤清正の左先鋒として兵士3,000名を率いて朝鮮に来て上陸してすぐに慶尙道兵馬節度使朴晉(パク・ジン)に降伏しました。釜山の東莱城(ドンレソン)に上陸した次の日でした。その後、歸附(帰化)して数回功を立てました。彼は「朝鮮の文物と衣冠風俗を美しく思うので礼儀の国の民になりたい」と朴晉に言っています。金忠善は慶尚道で軍勢を率いて日本軍と戦い郭再祐とも連合しました。78回にわたる戦闘の功績を讃えられ、正三品の僉知中樞府事に任命されました。1597年[宣祖(ソンジョ)30年]には孫時老など朝鮮に降伏した日本人の将軍とともに宜寧の戦いで戦功を立てて三品堂上になりました。蔚山城の戦いでは金景瑞の配下として蔚山倭城に乗り込み加藤清正の一軍を倒して従2品嘉善大夫になりました。以降、都元帥(トウォンス)權慄(朝鮮の将軍)、韓浚謙(仁祖の義父)の奏請(そうせい)により宣祖(ソンジョ)から金海金氏の姓と金忠善という名前を貰い正二品の資憲大夫(자헌대부, チョホンテブ)に昇進しました。
金忠善が朝鮮に火縄銃をもたらしたという話があります。
終戦後
日本との戦争が終わった後は野人から北方の領土を守るため自ら志願し、10年間警備した功績で正憲大夫となりました。1624年には李适の乱のときに副将の徐牙之を捕殺した功績で賜牌地を受けましたが、守禦廳に返して屯田を作りました。
1636年に召命を受けずに廣州雙嶺で清の兵士500名と戦い和議にこぎつけ大邱(テグ)の鹿里に戻りました。1643年に外怪權管で警備をしていた所、清の勅使の抗議で任を解かれ鹿里に戻りました。以降は鹿洞書院(녹동서원, ノクドンソワン, googleMap: 녹동서원)に籠りました。1798年(正祖13年)、この書院は廃止になりましたが、1914年に再建されました。
記録
朝鮮王朝実録には沙古汝武(사고여무, サクヤム)、沙汝某(사여모, サヨモ)、沙也可(사야가, サヤガ)という人物が記録されています。
仮説
和歌山県の雑賀衆(さいかしゅう)の鈴木孫一ではないかと言う説があります。「さいか」という発音と火縄銃のスキルがモトとなっているのではないかという説です。原田信種という説もあります。岡本越後守という説もあります。
子孫
牧使張春點(장춘점, チャン・チュンチョム)の娘と結婚して五男一女をもうけました。家訓と鄕約ともうけて郷里教化(향리교화)しました。
子
- 金敬元(キム・ギョンウォン)
- 金敬信(キム・ギョンシン)
- 金右祥(キム・ウサン)
- 金繼仁(キム・ゲイン)
- 金敬仁(キム・ギョンイン)
- 娘
孫
- 金振英(キム・ジヨン)
- 金汝三(キム・ヨサム)
- 金龍河(キム・ヨンハ)
子孫(現代)
- 김치열・・・キム・チヨル。法務部・内務省長官
- 김형국・・・キム・ヒョングク。大学教授
著作物
- 慕夏堂文集・・・自伝
観光
- 鹿洞書院(녹동서원) 達城韓日友好館 206 Urok-gil, Gachang-myeon, Dalseong-gun, Daegu, 大韓民国 : 地図
- 金忠善の資料と和歌山県の紹介が見られます。ここには神道碑があって正しい武士道は時の権力者の前に屈するほど弱いものであり、朝鮮の民を虐殺したことを嘆いた悲劇が刻まれているそうです。裏山に20分行ったところに金忠善の墓があります。太刀や家訓、詩などの展示もあるようです。
- 紀州東照宮 〒641-0024 和歌山県和歌山市和歌浦西2丁目1−20 地図
- 境内に石碑「沙也可顕彰碑」があるそうです。
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この記述は韓国のwikipediaから一部引用しています。尚、筆者のハングル語翻訳スキルは文字が音とわかる程度なので正確ではないのであしからず。
感想
この金忠善という人が本物の日本人の武将だとすれば、外国人で正二品になるということは、よほどのことであると思います。正二品といえば、堂上官(タンサングァン)ですから国王の覚えもめでたいはずです。状況は奇しくも宣祖(ソンジョ)の時代、宣祖崩御後は光海君(クァンへグン)が執政をとり、仁祖(インジョ)パンジョンというクーデターがありました。武将であった金忠善にしてみればクーデターは活躍と出世の大チャンスです。武士の仕事は敵を倒してなんぼのものですから、金忠善は時流に乗る能力が長けていたのでしょう。その本当の目的はお家の繁栄、朝鮮でいう家門の再興といったところでしょうか。しかし、金忠善のもうひとつの側面として、加藤清正の先鋒を切るほどの著名な武将が朝鮮に寝返ったのは、彼が正義な虐殺に疑念を抱いて朝鮮の平和のために正義を貫いたヒーローと韓国では評する人もいます。その理由には、彼が寝返るときに大臣に渡した手紙が今も伝えられていることが挙げられます。ほかにも上疏(じょうそ、上奏)文も残されています。これらはいずれも書院の展示館にあるそうです。結婚時の親筆や太刀も現代に伝えられています。
金忠善は族譜に「栄達を望んではいけない。畑を耕し暇があるときは勉強し人間らしく生きろ」と子孫に家訓を遺しています。また、金忠善が詠んだ死には故郷の親しい人々と別れて敵同士になった悲しい気持ちが詠まれています。
彼は朝鮮で一生懸命働いて、自分が正しいと思う信念を貫き夢を叶えたのです。
金忠善ほど有能な武将が日本で記録がないわけがありません。当時22歳だったとしても、どこかに名前があるはずです。
不思議に思ったのが文禄・慶長の役で日本から朝鮮に帰化した人が数千にものぼるということです。朝鮮から日本に拉致された人は2万とも3万ともいわれてますが、日本から朝鮮に行ったひとも少なくはなかったということです。その背景には、侵攻により人が殺されていなくなった土地に住み着いて田畑を得る機会があったことや、秀吉が武士に与えられる褒美が少なかったこともあるのではないでしょうか?しかし帰化した人々の身分はどうだったのでしょうね。
当時は数千名だとすればですよ?現代ではその人々が順調に子孫を残せば5,000万人くらいになるでしょう。あり得ないですけど(笑)ということは、日本から朝鮮に行った移民の暮らしぶりも金忠善のように順調ではなかったということがわかります。ですが、そうした人々の末裔と日本人が再び敵同士として一部の人が現代でも火花を散らしているのですから、悲しいことですね。
日本史では・・・平安時代までは朝鮮の百済や新羅と皇室は親しかったり新羅と敵対したりしつつも三国からの移民を受け入れ、鎌倉時代には敵同士で、室町時代には倭寇が活発となり李朝が手を焼いており、豊臣秀吉の政権は朝鮮と敵同士、徳川政権では朝鮮とは平和な関係で→明治からは敵同士→今では朝鮮にすっかり嫌われてしまい、自民党政権とは親しくもなく形だけの平和といった感じでしょうか。この法則から見るとどうやら武力を持ってる強い天皇や時の権力者がいない限り、日本と朝鮮の関係はよくならないようですね。