医女(醫女, 의녀)
医女(의녀))は朝鮮時代に内医院(ネイウォン)などに勤務した女性のことです。身分は賤民で主に官卑の生まれでした。内医院(ネイウォン)には70人が所属し、王宮の外から通勤していました。経国大典によると、医女の数は150人程度いた年もあったそうです。ほかの宮女とは違って結婚することもできました。世祖の時代、恵民署には31人、内医院(ネイウォン)には18人の医女がいました。医女は濟生院や恵民署や活人署だけでなく、その上級官庁である典醫監や內醫院にも勤めていました。
初學醫(初学医)
医女に選ばれた女性たちはまず初學醫で3年間教育を受けました。千字文、孝経、正俗篇、算書と様々な医学書から学びました。初學醫の期間中は給料は出ませんでしたが宮女の家には奉足が与えられました。成績が低いと奉足が剥奪されました。また、三か月以内に三回不合格が与えられると宮女は恵民署の茶母(タモ)の仕事が与えられました。
看病醫(看病医)
初學醫の3年が過ぎると看病醫となりました。看病をしながら医員(イウォン)を補佐します。40歳になるまで看病醫に残ることができ、それまでに専門職に就けないまま期間が過ぎれば降格させられました。
內醫女(内医女、ネイニョ)
看病醫(看病医)のうち優れた2人だけが内医女(ネイニョ)になれました。内医女(ネイニョ)になって初めて給料が出ました。優れた医女は御醫女(御医女)となり国王の身体を守ることが許されました。特別な寵愛を受けた医女に中宗(チュンジョン)時代の御医女チャングムがいます。
任務
基本任務は看病(介護)でした。婦人病の診療のほか、妊婦の助産師の役割を引き受けました。しかし処方は医員(イウォン)を通じて行う必要があり直接処方することはできませんでした。医女は婦人病に限り、ある程度自分の意思で活動し、通常は病人を看護することを引き受けました。
医女は犯罪捜査にも動員されましたた。 儒教理念に基づいて男女類別が厳しかった朝鮮時代に、高貴な身分の夫人の部屋には、 捕卒(ポジョル)入ることが難しかったので 医女が派遣され婦警の役割をしていました。 女性が犯罪を犯したとき、女性の体を調査し、 妊娠するかどうかを判断したりしていました。 死罪となった女性の囚人が妊娠をしたら、子供を産むまで死刑執行を延期する風習があったからでした。
宮女たちが罪を犯したとき刑や捕盗庁の命を受けて、彼女たちを逮捕することも医女の使途後であり、牢などに閉じ込められた宮女に食べ物を持って行き、健康状態を確認して報告しました。 しかし、罪を犯した人が宮女ではなく、婢子(ピジャ)であれば、医女が使えませんでした。
医女は後宮や幼い王子の連行を引き受けました。 光海君時代に永昌大君(ヨンチャンテグン)を連行した医女がいました。
その他の雑多なことも引き受けました。 王妃の陵墓を移動したり造成するとき、 男性は王妃の陵墓に行くことができなかったので、王妃や後宮の墓を守ることも医女の仕事であり、国王が宮殿の外に幸行するとき提灯を持つことや、 後宮の女性が亡くなった際に祭文を読むことも医女の仕事でした。
また、 燕山君の時代には恵民署の医女を動員して妓生のようにお酒を注がせ、音楽を演奏することもしましたが、その後も医女をヨアク(女樂)に連れて行っては頻繁に使われたことから、今の薬片妓生という別名が付くこともありました。
生活
一般宮女とは異なり、医女は結婚することができました。 しかし、本質的に医女も官婢の身分であり、医女は通常の官婢よりも軽蔑されたため、結婚生活が容易にではありませんでした。 世間では、妓生に劣らない卑猥な女性として扱われ、結婚する前に貞操を汚した場合も多くありました。 父のない子を育てる場合も日常茶飯事であり、結婚を複数回することもありましたし、結婚生活をしていた中にもいじめられたり捨てられることが多かったです。 つまり、平凡な良人の女性が自ら医女になるドラマ「許浚(ホ・ジュン、※リメイク版)」の内容は、完全にフィクションです。
それでも医女に最も良い結末は両班の籍に入ることでした。 医女を側室に三ときは医女ではなく種を1人捧げ官費で入れて、代わりに医女は良人の身分になりました。 子も出来損ないいえ量として購入することができるようになる 。
まとめ
夫人の診療という需要はあったものの、優秀な医女以外は無給であり妓生のような娼婦として扱われたので風紀が乱れていきました。
ちなみに日本には中医に精通した女医は・・・いなかったのではないかと思います。