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仁元王后(イヌォンワンフ)は粛宗の三番目の正室で英祖の継母 女の中の堯舜と絶賛される

仁元王后(イヌォンワンフ)

仁元王后(イヌォンワンフ)

仁元王后(イヌォンワンフ)または仁元大妃(イヌォンテビ)

概要

仁元王后(読み: イヌォンワンフ 韓国語: 인원왕후 英語: Queen Inwon)は朝鮮の王妃です。第19第国王である粛宗(スクチョン)の三番目の正室で、1687年11月3に生まれ1757年5月26日に亡くなりました。粛宗との間に子はいませんでした。彼女は21第国王英祖(ヨンジョ)の即位に多大な貢献をして命の恩人でもありました。そして思悼世子(サドセジャ)を自らが崩御するまで保護していました。もしも仁元王后がいなかったら密豊君(ミルプングン)李坦(イ・タン)が国王になっていた可能性がありました。

目次

  1. [誕生]
  2. [王妃になった経緯]
  3. [時代背景]
  4. [後宮の年表]
  5. [息子]
  6. [人間関係]
  7. [キャリア]
  8. [性格]
  9. [逸話]
  10. [晩年]
  11. [著作]
  12. [ドラマ]
  13. [関連記事]

誕生

1687年11月3日(旧暦9月29日)に少論派の金柱臣(キム・チュシン 김주신 1661年~1721年)と嘉林府夫人林川趙氏(カリムプブイン イムチョン チョシ 가림부부인 임천 조씨 1660年~1731年)との間に生まれました。

王妃冊封の経緯

仁元王后は仁顯王后が亡くなって1年後に王妃に冊封されました。通常王妃が崩御すると3年は喪に服するのが慣例でしたが粛宗はこの掟を破って異例の早さで仁元王后を昇格させました。王妃選びの際に粛宗が一番気に入っていたのは孟萬澤(メン・マンテク 맹만택)の娘だったといわれます。しかしその娘の親戚の評判がよくなかったため、最終的に仁元王后に決まりました。

時代背景

この時期は李氏朝鮮の中でも最も党派争いが過激な時期でした。

1680年 南人派が追放されました。

1683年 西人派が老論派と少論派に分裂しました。

1689年 少論派が流刑になり南人派が政権を取りました。

1693年~99年 疫病や飢饉などで人口が大幅に減少しました。

1694年 少論派が政権を取りました。

1717年 老論派が優勢になりました。

年表

1670年 第一王妃の仁敬王后金氏(インギョンワンフキムシ)が9歳で入宮しました。

1676年 第一王妃の仁敬王后金氏(インギョンワンフキムシ)が中殿(チュンジョン)に冊封されました。

1680年 第一王妃の仁敬王后金氏(インギョンワンフキムシ)が天然痘に罹り19歳で崩御しました。

同年 10月~3日 禧嬪張氏が王宮から追い出されました。

1681年 第二王妃の仁顯王后閔氏(イニョンワンフミンシ)が継妃になりました。

1686年 側室の寧嬪金氏(※ 名門の安東金氏)が入宮し数か月後に貴人(従一品)に冊封されました。

1688年 粛宗と禧嬪張氏との間に景宗が生まれました。

1689年 第二王妃の仁顯王后閔氏(イニョンワンフミンシ)が廃位され、側室だった禧嬪張氏が王妃に昇格しました。

同年 寧嬪金氏が王の動向を監視して王室の秘密を実家に流し、禧嬪張氏の母と趙師錫の噂を流したとして庶(ソ)に降格されました。寧嬪金氏の叔父で領議政だった金壽恒(キム・スンハン)と共犯のホン・チサン(홍치상)は処刑されました。粛宗は彼女の行為を助長させたのは仁顯王后だとし、仁顯王后も庶(ソ)に降格されました。

1693年 側室の淑嬪崔氏(スクピンチェシ)が淑媛(スグォン 正四品)に昇格しました。

1694年 第二王妃の仁顯王后(イニョンワンフ)が復位し禧嬪張氏(ヒビンチャン氏)が嬪に降格しました。寧嬪金氏も復位しましたが、公式行事に参加することができませんでした。

同年 粛宗と淑嬪崔氏との間に延礽君(ヨニングン)が生まれました。淑嬪崔氏が淑儀(従二品)に昇格しました。

1695年 淑嬪崔氏が貴人(従一品)に昇格しました。

1701年 第二王妃の仁顯王后(イニョンワンフ)が34歳で崩御しました。彼女の父は西人派でその子弟は老論派に分裂しました。

1702年 貴人金氏を嬪に昇格しました。䄙嬪朴氏を

1699年 淑嬪崔氏が淑嬪(正一品)に昇格しました。

同年 粛宗と䄙嬪朴氏との間に延齢君(ヨルリョングン)が生まれ淑儀(従二品)に昇格しました。

1701年 禧嬪張(チャン・ヒビン)が賜死しました。

同年 䄙嬪朴氏が貴人(従一品)に昇格しました。

1702年 (粛宗28)10月3日に仁元王后(イヌォン王妃)は16歳の年齢で粛宗の第三王妃に冊封されました。

同年 貴人金氏と朴氏が嬪(正一品)に昇格しました。淑儀柳氏は昭儀(ソイ)に昇格しました。

1703年 䄙嬪朴氏(ミョンビンパクシ 명빈박씨)が亡くなりました。

1718年 淑嬪崔氏がが亡くなりました。

1719年 延齢君(ヨルリョングン)が亡くなりました。

1720年 粛宗(スクチョン)が崩御しました。崩御前に側室の金氏の邸宅を改修するように粛宗は命じていました。

同年 景宗が国王に即位しました。景宗は金氏の邸宅の改修について閔鎭遠(ミン・ジノン)が進言したため、そうするように命じました。

同年 和順翁主(ファワンオンジュ 英祖の娘)が誕生しました。

1724年 景宗(キョンジョン)が崩御しました。

同年 景宗に毒を持った犯人として寧嬪金氏の名が挙がりました。

同年 英祖(ヨンジョ)が国王に即位しました。

1728年 密豊君(ミルプングン)が反乱軍の旗頭とされる李麟佐(イ・インジャ)の乱がおこり1729年に密豊君が死亡しました。

1730年 英祖(ヨンジョ)暗殺未遂の嫌疑をかけられた宣義王后柳氏(※ 景宗の妃 老論派)が(憤慨して食事を拒否したとされ)崩御しました。

1735年 寧嬪金氏(老論派の側室 安東金氏)が亡くなりました。

同年 思悼世子(サドセジャ 英祖の息子)が生まれました。

1758年 和順翁主翁主が亡くなりました。

1764年 仁元王后(イヌォン王妃)が亡くなりました。

1765年 思悼世子(サドセジャ)が米櫃事件で亡くなりました。

息子

粛宗と仁元王后(イヌォン王妃)の間に子はいませんでした。二人の年齢差は41歳です。仁元王妃の冊封時に粛宗の年齢は57歳でした。


後宮の人間関係

張禧嬪(チャンヒビン)は南人派でした。

寧嬪金氏は名家の出身でしたが粛宗に完全に嫌われていました。しかし延礽君(ヨニングン)は彼女のことを「母上」と呼んで慕っていました。彼女の待遇は他の皇宮と比べて差別されており、粛宗の死後も他の後宮たちが派手な暮らしをして批判されていたのに対し、質素な暮らしぶりを景宗が哀れんで一千両を改修費に充当しましたが実際の費用は二千両近くになりました。寧嬪金氏とその親族は景宗元年に景宗毒殺の嫌疑がかけられており、英祖は即位すると彼女の嫌疑を晴らしました。

仁敬王后金氏(インギョンワンフキムシ)は父の金萬基(キム・マンギ)が西人派で党分裂後は老論派になりました。

仁顯王后閔氏(イニョンワンフミンシ)の父もまた西人派で党分裂後は子弟が老論派となりました。仁顯王后閔氏は景宗を養子にしました。

淑嬪崔氏(スクピンチェシ)は第二王妃の仁顯王后(イニョンワンフ)と親交がありました。崔氏は孤児で仁顯王后のお父さんに拾われて後宮に送り込まれたとも言われます(要するに後宮の秘密を伝える間者の役割かと思います)。淑嬪崔氏は心が離れた粛宗から嫌われていました。

仁元王后(イヌォンワンフ)は淑嬪崔氏と寧嬪金氏と親交がありました。

仁元王后は少論派でしたが英祖を養子にし英祖即位後に老論派に鞍替えして後宮の主となりました。

キャリア

1702年 王妃になりました。

1720年 王大妃(ワンテビ)になりました。

1721年 仁元王后は延礽君(ヨニングン)を養子にして世弟(セジェ 王太子)冊封を助けました。

1724年 英祖の即位と同時に大王大妃(テワンテビ)に昇格しました。

性格

仁元王后は厳格で意思が強かった伝えられています。彼女は王室の後宮の法を厳しく守り、義理の息子である英祖とその妃や思悼世子(サドセジャ)を大切にしました。

逸話

王室の激しい権力争いの中で入宮することになった仁元王后もまた41歳年上の夫や自分と変わらぬ年頃の息子という彼女にとっては好ましくない環境のせいで宮に入って1年後に倒れてしまったそうです。粛宗が崩御するまでは高熱や皮膚病、感染症にかかっていました。粛宗はそんな王妃を追い出すこともなく、礼儀を示して無難な距離を保っていました。二人の間に子はいませんでした。

景宗の王妃との対立

1720年 景宗の即位と同時に仁元王后は王大妃となり後宮の最高権力者になりました。病弱だった景宗の正妃の宣懿王后(ソヌィワンフ 선의왕후)魚氏(オシ)は、このままでは後宮の主人になることはできないため、密かに宗室(王族)と連合して昭顯世子(そひょんせじゃ)の曾孫である密豊君(ミルプングン)を養子にして次の国王に立てる計画を立てました(1728年のイ・インジャの乱は宣懿王后の密命があったという噂がありました)。この宣懿王后は老論(ノロン)派の出身でしたが、夫のために少論派と手を結びました。

これを聞いた老論派はたいへん驚き国王であるはずの景宗を脅して延礽君(ヨニングン)を世弟(セジェ)に冊封させました。

1722年 朴尙儉の獄(박상검의 옥)が起きました。宦官の朴尙儉(パク・サンゴム)が金一鏡(キム・イルギョン)の命令を受けて景宗と延礽君(ヨニングン)との関係を悪化させ延礽君(ヨニングン)の失脚を試みようとしましたが仁元王后がうまく収拾し、延礽君(ヨニングン)を危機から救いました。

仁元王后は英祖の即位に多大な貢献をしたため、悠々自適の半生を送りました。

1728年 奇しくも李麟佐の乱が起きたこの年に、英祖の長男、孝章世子が9歳で亡くなりました。首謀者は景宗の妃、宣懿王后である可能性もありましたが、英祖(ヨンジョ)は義理の姉なので罰することができなかったといわれます。もしも英祖が景宗の妃を葬ったなら、自らが廃されるほどのクーデターが起きた可能性があったからでした。

仁元王后は英祖と思悼世子(サドセジャ)との関係を取り持っていましたが、1757年に仁元王后が亡くなると英祖は思悼世子(サドセジャ)を殺してしまいました。

もしも仁元王后がもっと長生きしていれば思悼世子(サドセジャ)は死なずに王になれたかもしれません。

晩年

1757年5月13日 仁元王后は亡くなりました。

著作

  • 「션균유사」
  • 「션비유사」
  • 「뉵아육장」

仁元王后が登場するドラマ


筆者の考察

仁元王后が英祖を支持せざるを得ない状況にあったことはこの歴史を読むと納得です。景宗の妃は後継者に密豊君(ミルプングン)李坦(イ・タン)を考えていました。景宗もまた臣下の企みにより延礽君(ヨニングン)との仲が引き裂かれようとしていました。もしも密豊君(ミルプングン)が国王になれば宣懿王后オ氏(景宗の妃)が大妃になったのです。

仁元王后が快適に生き延びるためには自らが延礽君(ヨニングン)を養子として大妃になるしか選択肢がありません。

子がいない仁元王后にとって思悼世子(サドセジャ)は親と子ほどの年の差があったので、母の役割を演じられ るという幸福感があったのかもしれません。

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