申師任堂(シン・サイムダン)
申師任堂(シン・サイムダン)は李氏朝鮮時代の女流画家です。朝鮮の儒学者李珥(イ・イ)、別名李栗谷(イ・ユルゴク)の母です。
目次
誕生
西暦1504年12月5日に生まれました。生まれた場所は「강원도 강릉부 죽헌리 북평촌(慶安道 江両府 竹峴里 北坪村)」です。生家である鳥竹軒(オジュッコン)は彼女の母と祖父母の家であり現在も保存されています。
父は申命和(シン・ミョンファ)という官僚で趙 光祖(チョ・グァンジョ 1489年~1512年)の友人でした。母は龍仁李氏で、李思溫の娘です。
師任堂(サイムダン)は5人の姉妹の末から2番目です。
師任堂(サイムダン)の父、申命和(シン・ミョンファ)は漢城府(ハンソンブ, 한성부)に家族とは別々に16年間住んでいました。申命和(シン・ミョンファ)は師任堂(サイムダン)の母方の家に助けられながら科挙の試験勉強を続け、年に数回鳥竹軒(オジュッコン)を訪ねていました。申命和(シン・ミョンファ)は当時の朝鮮国王、中宗(チュンジョン)による学者の粛清事件(己卯(きぼう)史禍)があり江陵(カンヌン)に戻りました。
高い教養
龍仁李氏は結婚後も両親の実家に住み続けたため、師任堂(サイムダン)をはじめとする5人の娘の教育方針についての自由な裁量がありました。師任堂(サイムダン)の祖父が、彼女たちに学問を教えたであろうことが想像されます。
師任堂(サイムダン)は、儒教や歴史や文学について豊富な知識を身につけ父の訪問者を驚かせました。師任堂(サイムダン)とその姉妹は申命和(シン・ミョンファ)から千字文、童蒙先習(동몽선습)、明心寶鑑、儒教を学びました。師任堂(サイムダン)は特に才能があり、父の支持を得ました。師任堂(サイムダン)には兄弟がいなかったため、息子にのみ遺贈される教育を受けることができました。
この背景は師任堂(サイムダン)が彼女の息子たちを教育する方法に大きな影響を与えました。
師任堂(サイムダン)は、当時の両班の女性には一般的ではなかった教育を受けることができました。文学と詩のほか、書道や刺繍や絵画にも長け이숙권(イ・チュクウォン)からも絶賛されました。
結婚
申命和(シン・ミョンファ)は李元秀(イ・ウォンス)を師任堂(サイムダン)の夫に選びました。李元秀(イ・ウォンス)の先祖には領議政(ヨンイジョン)と左議政(チャイジョン)がいましたが、家族が間違っていたので多くの人々はこの結婚が良くないと思いました。
李元秀(イ・ウォンス)も失業し、彼の父も亡くなりました。
申命和(シン・ミョンファ)は他の男よりも師任堂(サイムダン)の芸術活動の継続を認めてくれる李元秀(イ・ウォンス)との結婚を優先させました。
1522年8月20日、師任堂(サイムダン)は19歳で結婚しました。李元秀(イ・ウォンス)の許可を得て江陵(カンヌン)の実家で時を過ごしました。李元秀(イ・ウォンス)の実家は坡州にありましたが結婚した年に申命和(シン・ミョンファ)が亡くなり彼女は二つの家を行ったり来たりしました。
師任堂(サイムダン)は後に李元秀(イ・ウォンス)の就職と同時に彼の勤務地に同行しました。彼女は夫の士官先である漢城府(ハンソンブ)と平昌(ピョンチャン)を含むいくつかの土地に引っ越しました。
子
師任堂(サイムダン)と李元秀(イ・ウォンス)の間に5人の息子と3人の娘たちが生まれました。三人目の息子、李珥(イ・イ)は著名な儒者となりました。1503年、彼女が子どもたちと漢城府(ハンソンブ)に戻った時、母として新たな詩を詠み愛情を示しました。38歳の時に、漢城府(ハンソンブ)の新居に母親とともに越して来ました。
夫
当時、妻は夫に服従しなければならないという価値観がありましたが師任堂(サイムダン)はそうではありませんでした。師任堂(サイムダン)は夫の科挙に合格させるために10年の別居を約束して李元秀(イ・ウォンス)を山に送って勉強させました。李元秀(イ・ウォンス)が妻を恋しく思い山を降りた時、師任堂(サイムダン)は夫を叱責し、一生懸命勉強しなければ髪を切ると言いました。師任堂(サイムダン)の努力にも関わらず、李元秀(イ・ウォンス)は3年で山を降りました。
夫の不倫
李元秀(イ・ウォンス)はクォン氏という名の妓生を愛しました。これに気づいた師任堂(サイムダン)は李元秀(イ・ウォンス)とクォン氏が同棲し始めた時に夫婦の関係は冷めました。
自らの死を予見していた師任堂(サイムダン)は自分の死後に夫に他の女性と結婚しないように頼みました。師任堂(サイムダン)「孔子、孫子、周敦淑は結婚の掟を破りましたがその後再婚したことは無い」と、夫に告げました。師任堂(サイムダン)は夫にクォン氏を再び家に招かないよう頼みました。師任堂(サイムダン)は儒教の経典を引用して李元秀(イ・ウォンス)に他の女性と結婚しないよう頼みました。
子どもたちへの影響
李元秀(イ・ウォンス)の不倫による夫婦関係の冷え込みは子どもたちにも影響しました。
李珥(イ・イ)は平和な家庭生活を望みました。
死去
息子の李珥(イ・イ)は母のことが大好きだったので、師任堂(サイムダン)が病気になると、彼女の実家の父が祀られている社で毎日一時間の祈りを捧げました。李珥(イ・イ)を捜していた家族は、彼が祈っていることを知り大いに感動しました。李珥(イ・イ)の努力も虚しく師任堂(サイムダン)の病気は悪化しました。
師任堂(サイムダン)は西暦1551年5月17日に平安道に引っ越した直後に48歳で亡くなりました。
師任堂(サイムダン)の死後、李珥(イ・イ)は父の李元秀(イ・ウォンス)と衝突しました。李元秀(イ・ウォンス)はクォン氏と結婚しなかったものの、酒好きでした。師任堂(サイムダン)の家族は李元秀(イ・ウォンス)に苦しみました。李珥(イ・イ)は家族から離れました。
作品
師任堂(サイムダン)の描いた絵は繊細であることで知られています。昆虫、花、蝶、蘭、ブドウ、魚、そして風景は彼女が好きなテーマの一部でした。他にも描いたと考えられますが、現在では約40枚の作品が残っています。
書については残っていませんが、彼女が書いた作品は高官や書家たちの作品とともに称賛されました。稗官雜記にぶどうや風景画の素晴らしさが書き残されています。
師任堂(サイムダン)の作品は安堅(アン・ギョン)の作品と比較されました。江陵の総督は、1868年にサイムダンの作品を賞賛したとき、「サイムダンの書道は思慮深く書いてあり、貴族の優雅さ、落ち着き、清らかさ、女性の美徳に満ちている」と述べました。
師任堂(サイムダン)の才能は子どもたちにも受け継がれていました。長女の李梅窓(イ・メチャン)は詩が得意でした。息子の李瑀(イ・ウ)は絵画と詩の才能がありました。
詩
- 踰大關嶺望親庭(유대관령망친정)
- 思親(사친)
絵画
- 紫鯉圖(자리도)
- 山水圖(산수도)
- 草蟲圖(초충도)
- 魯雁圖(노안도)
同時代の女流詩人
師任堂(サイムダン)と同時代に生きた女性に許楚姬(ホ・ソヒ, 허초희)という詩人がいます。彼女の弟、許筠(ホ・ギュン)はホン・ギルドン伝の著者とも言われます。許楚姬の夫も他の女性を追いかけるような男でした。生まれた長男と長女も夭折し、義母との関係も悪かったようです。許楚姬は既婚女性の窮状を詩に遺し、兄が亡くなって1年以内に27歳で自害しました。彼女の作品のほとんどは遺言により燃やされました。よほど不幸な結婚生活に苦しんでいたのでしょう。心ない夫を持った苦しみが詩にあらわされています。
許楚姬の不幸な結婚生活と比べると、師任堂(サイムダン)の生活はまだマシだったと思えます
韓国での評価
2009年、師任堂(サイムダン)は賢い母の象徴として5万ウォン紙幣に肖像画が印刷されました。
師任堂(サイムダン)が登場するドラマ
- 師任堂(サイムダン)、色の日記(2016年) : 筆者解説ページ
筆者の感想
2017年に「師任堂(サイムダン)、色の日記」というテレビドラマを見てから師任堂(サイムダン)という女性が実在したことを初めて知りました。韓国では紙幣になるほど有名な人物で、日本で言えば与謝野晶子のような位置づけになるでしょうか。どこまでが本当の話かわかりませんが、夫の浮気のことまで歴史に残っているところが凄いと思いました。それが仮に本当の話だとすれば都城(トソン)にもその噂が流れたのかもしれません。
当時は両班の男性が妓女(キニョ、妓生の女)に入れ込もうと、愛人を囲おうともまったく無問題であったことは想像に難くありません。しかし女性にとっては夫が他の女性と交際していることは(社会の掟から必然的に両班以外の女性となり)、正妻や側室が一人の夫を共有してハーレムを許容しなければならないという掟があるとはいえ、自分や長男以外の子どもたちが尊重されれていない苦しみは教養がなくてもわかります。
愛人のクォン氏は勝手に師任堂(サイムダン)の住まいに出入りしていたのでしょう。妻からしてみれば、自分の縄張りに入って来た敵そのものです。
女性が無知でいる社会の掟、無知ゆえに人の道もわからぬ女性が多い世の中。妻が夫の浮気を認めなければいけない社会の掟、そういったものが師任堂(サイムダン)にとって嫌なものだったと思います。教養が高い師任堂(サイムダン)の話相手は必然的に儒者か、すぐれた女性しかいなくなります。師任堂(サイムダン)の話がわかる相手は学者レベルの教養人。少なくとも夫でなかったことだけは確かです。
李元秀(イ・ウォンス)が師任堂(サイムダン)を自由にさせていたこともおそらく事実でしょうし、李元秀(イ・ウォンス)も妻に干渉しない時間を好きなように生きた結果が遊び女との意気投合だったのでしょう。そういった意味では師任堂(サイムダン)にとって李元秀(イ・ウォンス)は欠かせない人であり、李元秀(イ・ウォンス)も自分を官職へと引き立ててくれた師任堂(サイムダン)は欠かせない人だったのでしょう。しかしながら二人ともそうは思っていなかったのかもしれません。
もしかしたら李栗谷(イ・ユルゴク)も父親がダメオヤジではなかったら勉学に逃避せずに済んだのかもしれません。
追記
筆者は韓国語や漢文がほとんどわかりませんので、息子の名前の翻訳に関しては少し自信がありません。間違っている可能性がありますので他への文章のご利用はおやめください。
参考: https://en.wikipedia.org/wiki/Sin_Saimdang