貞顯王后(チョンヒョンワンフ)
Youtubeより「七日の王妃」から慈順大妃(チャスンテビ)
韓国ドラマ「七日の王妃」に登場する慈順大妃(チャスンテビ)。彼女は晋城大君(チンソンテグン、のちの中宗)の実母で成宗(ソンジョン)の3番目の王妃です。
基本情報
- 貞顯王后尹氏(韓国語: 정현왕후윤씨 日本語: チョンヒワンフユンシ)
- 慈順大妃(チャスンテビ)
- 諡号: 慈順和惠昭懿欽淑貞顯王后
- 本貫: 坡平(パピョン)
- お墓: 宣陵
- 生没年: 西暦1462年(年)7月21日~1530年9月13日
- 出生地: 新昌官衙
生涯
1462年7月21日(旧暦6月25日)に生まれ、1530年9月13日(旧暦8月22日)に69歳で亡くなりました。 1473年 、父が兵曹參知(ピョンジョチャムチ=병조참지 正三品 堂上官)である当時の淑儀(スギ)に選ばれ入宮し、 1479年 尹氏 (燕山君の母)の廃位により新た王妃に冊封されました。 彼女は実家の父ユン・ホとユン・ピルサンなどと一緒にユン氏の排除に加担したという主張もりますが、 廃妃尹氏の廃位当時17歳だった慈順王妃がこの日にどのくらいの関与したのかは不明です。思悼世子(サドセジャ)を死に至らしめた背後に18歳の貞純王后(チョンスンワンフ)が背後にいたこともあったので、可能性は十分にあると考えられます。 晉城大君(チンソンテグン、後の中宗)との間に複数の王女を生みましたが、王女は早く死にました。 1480年11月8日に成宗の第三王妃に冊封されました。
廃妃尹氏の息子である燕山君は後でユン氏が実母と知らずに成長しましたが、 1493年に成宗の墓碑銘(お墓の銘文)と行狀(生没の説明文)を使う際に廃妃尹氏の賜死を知ることとなり、甲子士禍を起こして士林派を虐殺するに至りました。 1497年(燕山君3年)チャスン(慈順)、1504年ファヘ(和惠)の尊号を受けました。 1506年 の中宗反正時半の主導勢力に中宗(チュンジョン)が王位に就くことを承諾しました。
家系
- 父 鈴原府院君平靖公尹壕
- 母 延安府夫人田氏
- 夫 成宗
- 息子1 燕山君(※朝鮮国王)
- 息子2 中宗(※朝鮮国王)
- 孫 明宗(※朝鮮国王)
- 娘1 順淑公主
- 娘2 愼淑公主
陵墓
宣陵
- 住所(韓国語): 서울시 강남구 삼성동 131번지
- 住所(日本語): ソウル市 江南区(カンナムグ) 三成洞131
- 料金: 有料