定宗(チョンジョン)
定宗(チョンジョン)王堯(ワン・ヨ)
王堯(ワン・ヨ)皇子として、韓国ドラマ「麗(レイ)」に登場し、定宗(チョンジョン)として「輝くか、狂うか」に出て来る皇帝。ドラマではあまりいい役ではないものの、王堯こと定宗は高麗(コリョ)の第三代皇帝で、初代皇帝の太祖(テジョ)の息子です。
定宗(チョンジョン)は西暦923年に生まれ、949年に崩御しました。およそ25歳~26歳で亡くなった若き皇帝です。「輝くか、狂うか」ではとても26歳とはおもえないオジサンが皇帝役を演じていました。
目次
概要
定宗(チョンジョン)は高麗の第三代皇帝です。西暦923年に生まれ、即位したのは945年10月23日です。崩御したのは949年の4月13日です。本名を王堯(ワン・ヨ)といい、字(あざな)は義天(ウィチョン)、廟号は定宗(チョンジョン)、諡号は至德章敬正肅令仁簡敬莊元文明大王、諡號(ヌンホ)は安陵です。
定宗(チョンジョン)は太祖王健(テジョワンゴン)と神明順成王太后との息子です。朴英規(パク・ヨンギュ)の二人の娘です。
定宗(チョンジョン)は王式廉(ワン・シンニョム)の力を借りて朴述熙(パク・スリ)を排除し、王規(ワン・ギュ)の乱を鎮圧して臣下の推戴により即位しましたが、政治基盤が脆弱でした。西京(ソギョン)への遷都を計画しましたが、実現しませんでした。
生涯
誕生と兄弟
定宗(チョンジョン)は太祖王建(テジョワンゴン)の三男として生まれました。母の神明順成王太后にとっては次男です。母は三番目の妃であり、劉兢達(ユ・グンダル)の娘で忠州劉氏(チュンジュユシ)という豪族です。神明順成王太后は太祖(テジョ)との間に最も多くの子どもを産みました。王堯(ワン・ヨ)の弟にのちの皇帝光宗(クァンジョン)が生まれました。神明順成王太后は先に太子(テジャ)の王泰(ワン・テ、2歳で早逝)を出産していましたが、王位継承争いで亡くなりました。
王規の乱
945年、恵宗(ヘジョン)の最側近であった朴述熙(パク・スリ)を流刑にした後に処刑しました。その年の9月に定宗(チョンジョン)は父のいとこである王式廉(ワン・シンニョム)に王規(ワン・ギュ)との戦いに備えるよう命じます。
王規(ワン・ギュ)が自分の孫を即位する計画を立てていた時に、定宗(チョンジョン)は王規を排除する作戦を立てていました。
恵宗(ヘジョン)の死が間近に迫ると、西京(ソギョン)を築城しながら長年に渡り勢力を蓄えて来た王式廉(ワン・シンニョム)は、定宗(チョンジョン)に呼ばれて軍を率いて開京(ケギョン)に入りました。
即位後
定宗は、946年に即位しました。直後に定宗(チョンジョン)は王式廉(ワン・シンニョム)を使って王規(ワン・ギュ)を殺しました。定宗(チョンジョン)は王式廉(ワン・シンニョム)を大丞に昇格させました。
即位元年、即位を記念して顯陵で祭祀(チェサ)を行い、罪人を赦免しました。主要な寺院に七万石を寄付しました。仏教の経典を出版するために佛名經寶(불명경보=ブルミョンギョンボ)と廣學寶(광학보=クァンハクボ)を設置しました。しかし、開京(ケギョン)での豪族の反応がなかったため、王式廉(ワン・シンニョム)の拠点である西京(ソギョン)遷都を計画します。開京(ケギョン)の戸民を西京築城の役夫にしたため、民の不満が高まりました。947年には朴守文(パク・スムン)に西京王城と鐵甕(チョルォン。平安南道メンサン)、博陵(バクルン、今の平安北道バクチョン)、三陟(サムチョン)、通德(トンドク、今の平安南道のチュクチョン)の築城・維持させました。その同じ年、後晋に留学に行く途中に契丹に捕らえられて官職を得た崔光胤(チェ・グァンユン)が使臣として高麗に来訪、30万の大軍を送ると知った定宗は光軍(クァングン)を創設して西京に駐屯させ、契丹の侵攻に備え、軍事組織である光軍司(クァングンサ)を設置しました。948年9月には、東女真族(ヨジンジョク)が馬700頭と貢物を贈りました。定宗(チョンジョン)は天德殿で馬を見た時に、突然雷が宮殿の西の角に当たったため、驚いて倒れ病床に伏しました(雷が当たったのでしょうか?)。
定宗(チョンジョン)は即位すると、高句麗の故地の回復と開京(ケギョン)の豪族をけん制するために、西京(ソギョン)に遷都しようとしましたが豪族と開国功臣の不満を募らせることになりました。定宗(チョンジョン)は不安定になり、自らと同じ勢力であり弟である王昭(ワン・ソ)まで疑いはじめました。
崩御
949年1月、王式廉(ワン・シンニョム)が亡くなりました。その二か月後の3月、死期を悟った定宗(チョンジョン)は弟の王昭(ワン・ソ)に譲位してから亡くなりました。定宗(チョンジョン)が崩御して西京(ソギョン)で働かされていた人々は喜びました。
家族
祖父:世祖
祖母:威肅王后
父:太祖
母:神明順成王后
妃1:文恭王后と朴英規の娘
妃2:文成王后と朴英規の娘
息子:慶春院君
娘:名前不詳
定宗が登場するドラマ
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感想
定宗(チョンジョン)について学び、時代劇で定宗(チョンジョン)の姿を見た感想です。定宗は高麗第三代目の皇帝で、即位時はおよそ20~21歳、崩御時は25~26歳と、まさに花盛りの年頃で亡くなりました。現代の価値観で20歳といえば、まだ子どもで、よほどつらい目に遭って乗り越えた経験がないならば、通常さほど賢くもない年頃です。政策について考えるための知識や経験もなく、英才教育を受けていない限り、この年頃では自分で自身の心を見つめたり、重要な物事を判断できるほどの能力もありません。
実在の定宗がどれほどの実力の持ち主であったかわかりませんが、権力闘争に明け暮れていたことは間違いなさそうです。二代目の恵宗(ヘジョン)と定宗は母親が違いますので、堯(ヨ)皇子が次の皇帝の座を狙うのは、母親や親戚が堯(ヨ)皇子に皇帝になるように仕向けられ、本人もその自覚を高めていったといったほうが実情なのかもしれません。
忠州劉氏のルーツはおそらく中原なのでしょう。定宗の母方の祖父、劉兢達(ユ・グンダル)の名前は三国志演技にも登場します。劉兢達は新羅末期の忠州(チュンジュ)地方の有力な豪族で、弓裔(きゅうえい、新羅王の側室の子)の配下の武将として忠州(チュンジュ)に侵攻して淸吉(チョンギル=청길)や莘萱(シンフォン=신훤)の勢力を平定すると、王建(ワン・ゴン)と手を結びました。
(つまり、ユ・グンダルは当時の主人である弓裔を、王建とともに裏切ったのです。この弓裔、生まれが可哀そうなことに、新羅王と側室との間に生まれたものの、宮殿かが投げ捨てられた際に片目を失い、王宮の外で育ったそうです。)
高麗は、武将の裏切りによって建国されたのです。成立背景は朝鮮と同じですね。
建国当初は皇子と、その母や功臣たちが必死に権力争いをします。ここで権力を手にしなければ、これから千年続く新しい国で貴族として左うちわで裕福に暮らせない。そう考えたのかもしれません。ラクして生きたいのです。どうやらそれは人間の性分というもので、国王は王権に挑戦する者たちを殺されなければ大人しくならないようです。建国当初は臣下といいますか、同盟を結んだ有力者が奴隷と土地を自分の所有物として贅沢の限りを尽くします。しかしそれでは国は運営していけません。高麗という時代は豪族が国王の支配者となっていた、そんな時代であると思います。定宗と光宗を産んだこの忠州(チュンジュ)劉氏、高麗時代にいくらか名を遺したものの、朝鮮時代以降では・・・あまり名が無いようです。
ラクして暮らしたいという動機ために、どれほどの血が流れたのでしょうね。ただラクしたいだけなのに・・・(笑)
出典:韓国のWikipedia 고려 정종(高麗 定宗)および유긍달(劉兢達)および、충주 유씨(忠州劉氏)