王式廉
王式廉(ワン・シンニョム、韓国語=왕식렴)は高麗建国時に実在した歴史上の人物です。韓国時代劇「輝くか、狂うか」や「麗(レイ)」に登場します。
王式廉(ワン・シンニョム)の生まれた年はわかりませんが、亡くなったのは西暦949年の2月7日です。王式廉(ワン・シンニョム)は新羅出身の豪族で、太祖(テジョ)王建(ワン・ゴン)の叔父、王平達(ワン・ピョンダル)の息子です。王建(ワン・ゴン)の従弟です。高麗の建国功臣であり、三代目国王の定宗(チョンジョン)の即位を助けたことで匡國翊贊功臣に封じられました。本貫は開城(ケソン)。諡号は威靜。
目次
生涯
高麗の建国初期
王式廉(ワン・シンニョム)は王平達(ワン・ピョンダル)の息子です。父の王平達(ワン・ピョンダル)は懿祖と龍女渚旻義の息子で世祖の弟であるといわれ、高麗の開國功臣三韓功臣に封じられました。王式廉(ワン・シンニョム)の弟に王信と王育がいます。
王式廉(ワン・シンニョム)は 918年 太祖王健の高麗建国を助けた功労で功臣に録勲されました。
軍部書史という官職を始め、複数の役職を歴任しました。 太祖が西京(ソギョン)を重要視して、西京 (平壌)が荒廃したことを聞いて王式廉(ワン・シンニョム)を鎭將(日本語で鎮将=ジンジャン)に任命しました。王式廉(ワン・シンニョム)は民を西京に移住させて西京の開拓に尽力しました。 安水鎭(アンスジン)、興德鎭(フンドクジン)などに城を築き佐丞(チャスン)に昇進しました。
太祖(テジョ)崩御後は西京を基盤に権力を気づき、太祖(テジョ)の息子、王堯(ワン・ヨ=のちの定宗)皇子と手を結びました。
王規(ワン・ギュ)の乱の鎮圧
二代皇帝恵宗(ヘジョン)皇帝が病床に伏して後継者争いが起こりました。王式廉(ワン・シンニョム)は王堯(ワン・ヨ)皇子を支持しました。
王規(ワン・ギュ)は自分の孫である廣州院君(太祖の16番目の妃小廣州院夫人との間にできた息子)を即位させようと企んでいました。定宗(チョンジョン)は密かに西京にいた王式廉(ワン・シンニョム)を呼び対策を立てました。
王式廉(ワン・シンニョム)は恵宗(ヘジョン)が崩御する945年までの間、西京(ソギョン)築城を行いながら、27年間西京に強力な地盤を築いていました。自分の力では即位が難しいと判断した王堯(ワン・ヨ=定宗)は王式廉(ワン・シンニョム)と手を結びました。定宗(チョンジョン)は開京(ケギョン)に王式廉(ワン・シンニョム)を呼び寄せました。恵宗(ヘジョン)が病床に伏していた時に、定宗(チョンジョン)と王式廉(ワン・シンニョム)は王規(ワン・ギュ)国王を暗殺しようとしたとして討ちました。しかし王規(ワン・ギュ)の乱に関して、恵宗(ヘジョン)の側であった王規の反乱ではなく、定宗(チョンジョン)と光宗(クァンジョン)とその支持者である西京の貴族と王式廉による反乱であったとの見方があります。なぜなら王規(ワン・ギュ)は太祖(テジョ)の遺言を受けて恵宗(ヘジョン)を補佐していましたが、軍事力が弱く、むしろ恵宗(ヘジョン)と朴述熙(パク・スリ=開国一等功臣)に保護される側であり、孫とも縁遠い関係であり反乱する理由が見当たりませんでした。
945年に王規(ワン・ギュ)が恵宗(ヘジョン)暗殺を企てたとして、王式廉(ワン・シンニョム)は軍を率いて王規(ワン・ギュ)と関係者三百人を処刑して王堯(ワン・ヨ=定宗)の即位に貢献し匡國翊贊功臣に叙勲され、大丞(テスン)となりました。
生涯の後半
定宗(チョンジョン)は西京に遷都しようとしましたが失敗しました。王式廉(ワン・シンニョム)は949年に亡くなり、虎騎尉太師三重大匡開國公に追贈されました。彼の死後、西京は権力争いから離脱しました。
家族
父・・・王平達(開国功臣、三重大匡)
母・・・?
弟・・・王信、王育、開城(ケソン)王氏
夫人・・・?
息子・・・王咸允、王咸順、王風
王式廉(ワン・シンニョム)が登場するドラマ
- 太祖王建:2000年 〜 2002年
- 帝国の朝:2002年~2003年
- 輝くか、狂うか:2015年
- 麗<レイ>〜花萌ゆる8人の皇子たち〜:2016年
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