李氏朝鮮時代の派閥
韓国ドラマの時代劇を見ていると、必ずといってよいほど派閥(学派)が登場し、王宮内で血の嵐が吹き荒れます。日本の歴史ではこれほど凄惨な思想と言論と濡れ衣を武器とした大臣同士の派閥争いは教科書に乗っていないので、朝鮮では言動やねつ造された証拠ひとつで処刑され流刑となるか子女は奴婢に転落することに首を傾げる人も少なくないと思います。もしかしたら日本でも似たようなことはあったのかもしれませんが、こういった罪のなすり付けによる政敵排除は私も見た事がなく驚くばかりです。
今回は李氏朝鮮時代の政治派閥について「(姜文彦, 1993)」という本から調べてみました。
今回は李氏朝鮮時代の政治派閥について「(姜文彦, 1993)」という本から調べてみました。
目次
士禍(サファ)とは、官僚が派閥ごと都合よく政敵に罪を着せられて粛清(処刑)される事件のことです。李氏朝鮮時代に政権が交代するときには必ずといってよいほど士禍で派閥の重要人物が複数処刑され連座制で家族は奴婢に転落します。
勲旧派(フングパ)・・・建国~16世紀
勲旧(フング)派とは、開国時の功臣です。初期の朝鮮では勲旧派が功臣田(こうしんでん)や奴婢を貰って大地主となり大きな顔をしていました。
勲旧派は詞章派といい詩賦や文章を重視します。勲旧派は14代の宣祖の頃には消えていきました。
勲旧派がのさばる様子は韓国ドラマ「王と妃」で詳しく描かれています。
勲旧派がのさばる様子は韓国ドラマ「王と妃」で詳しく描かれています。
- 韓明澮(ハン・ミョンフェ)・・・世祖とともに癸酉靖難を起こしたで中心人物で仁粋大妃とも結託して栄華を極めるも燕山君に恨まれ墓を掘り返されて遺体を損壊されました。
士林派(サリムパ)・・・15世紀末~16世紀
士林(サリム)派とは、慶尚道に勢力を置く高麗に忠誠を誓い朝廷から離れて思想を深めていた吉再(キル・ジェ)を代表とする儒者たちの派閥です。地方の郷村や郷庁に力を持っており中小の田を持つ地主で勲旧派を恨んだり嫉妬して対立していました。三代国王太祖(テジョ)が鄭夢周や鄭道伝を殺したことから初期には士林派が政治の表舞台にのぼることはありませんでした。
士林派は学道派といて性理学(朱子学)を重視していました。
世宗(セジョン)のときに徐々に登用されはじめ勢力を強め、成宗のときに士林派が本格的に登用されましたが、燕山君のときに粛清されます。次の中宗(チュンジョン)は趙光祖を登用しましたが、趙光祖(チョ・グァンジョ)らが1519年に粛清された己卯士禍(キボウサファ)が起こります。趙光祖は詞章を排斥して学道一辺倒の改革を行い勲旧派の恨みを買いました。国王は詩を詠んではならない、臣下から詩を献詩されてはならないといった風に。
その様子は「師任堂(サイムダン)、色の日記」で中宗(チュンジョン)が士林派に詩を内密に贈り、それが噂になったことを中宗(チュンジョン)が知ったときの並々ならぬ慌てようで表現されています。
士林派は己卯士禍(キボウサファ)にも懲りずに主導権を拡張し士林派は宣祖の治世、1565年に政治の主導権を掌握すると士林派同士の内部抗争が激しくなり西人と東人に分裂します。
「師任堂(サイムダン)、色の日記」に李退渓(イ・テゲ)という学者が部分的に登場します。に李退渓(イ・テゲ)は士林派の学者で人気も人望もありましたが内部抗争を嫌い、仲間の招きがあっても朝廷には行きませんでした。
士林派は朱子学一辺倒で凝り固まり思想や学問、芸術の発展を妨げました。
士林派は1575年、宣祖(ソンジョ)9年の時に人事権がある吏曹銓郎(イジョジョンナン)のポストをめぐり金孝元(キム・ヒョウォン)らの東人(トイン)派、沈義謙(シム・イギョム)らの西人(ソイン)派に分裂します。
この吏曹銓郎(イジョジョンナン)という地位は韓国ドラマ「オクニョ運命の女」でソン・ジホンというイケメンの若い男が明宗から人事を担う役職として任命される場面があります。
この東人(トイン)と西人(ソイン)の派閥争いは全羅道差別に発展します。全羅道は高麗の建国した始祖王建(ワンゴン)が遺言で全羅道の人材は登用せず差別するように言い遺しています。東人(トイン)には李退渓(イ・テゲ)の門下生が多く属していました。鄭汝立(チョン・ヨリプ)は西人(ソイン)の李栗谷(イ・ユルゴク)の門下生でしたが西人をはなれて東人に加わりました。鄭汝立(チョン・ヨリプ)は全羅道全州に落郷(ナクヒャン)して全州で学者として名声を博し多くの支持者に慕われました。西人はこのことに腹を立てて1589年に鄭汝立(チョン・ヨリプ)が全羅道や黄海道(ファンヘド)で両班や僧侶や中人を集めて大同契(テドンゲ)という秘密結社を作り国王に反逆を企てた大逆罪人として罪を着せたのでした。これを己丑獄事といいます。己丑獄事の事件から全羅道(チョルラド)は反逆郷として人材登用が制限され差別されるようになりました。それ以来、(活躍の場が制限されたため)全羅道(チョルラド)には文学や芸術で優れた文人たちが多く輩出されることになります。
その後、豊臣秀吉の侵略(1592年)で李舜臣(イ・スンシン)の水軍が勝利を挙げた背景には全羅道(チョルラド)の支持基盤があったためといわれます。
小尹派(ソユンパ)1545年前後~1565年
文定大妃(ムンジョンテビ)尹氏とその弟尹元衡(ユン・ウォニョン)を領袖とする派閥です。尹元衡の父尹之任は王室の外戚(中宗の義理の叔父)、曾祖父は尹継謙という功臣です。
韓国ドラマ「オクニョ~運命の女」では尹元衡と側室鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)、文定大妃が横暴を振るい明宗と対立する様子が描かれています。
大尹派(テユンパ)1545年前後~
尹任を領袖とする士林の一派です。尹任の父は尹汝弼で王室の外戚で尹元衡と共通の祖先に尹璠がいます。1545年の乙巳士禍により尹任らは処刑されます。
西人(ソイン)1575年~
西人(ソイン)は1623年に光海君(クァンへグン)と北人(プクイン)の政権を倒して仁祖(インジョ)を擁立します。西人は在野の士林派と勲旧派を批判しながら勢力を伸ばし政治の主導権を握りましたが秀吉や清の侵入があっても理想である儒教的王道政治の実現や民のことはそっちのけでした。西人が仁祖(インジョ)と手を組んでいる間、清に人質に取られていた昭顕世子(ソヒョンセジャ)が帰国し三か月後に謎の変死を遂げ世子嬪も賜死しました。
昭顕世子(ソヒョンセジャ)が謎の死を遂げる様子は韓国ドラマ「推奴(チュノ)」で少し描かれています。
昭顕世子(ソヒョンセジャ)が怪死した後に西人は鳳林大君(ポンニムテグン)を即位し孝宗としました。
頂点を極めた西人は内部抗争により老論派と少論派に分裂します。
東人(トンイン)1575年~1591年
士林派から分裂した派閥です。金孝元(キム・ヒョウォン)を領袖とし、漢陽(ハニャン)の東側に住んでいたので東人となりました。
北人派(プクインパ)1591年~
東人から分裂した派閥です。西人が実権を掌握後は政権から遠ざかりました。
大北派1606年~
光海君(クァンへグン)に重用された派閥で永昌大君と綾昌大君を謀殺し西人、南人、小北を追放しました。西人が仁祖反正を起こすまで20年間権力を握り続けました。大北派は骨北、肉北、中北とに分かれ内部抗争を続けました。
少北派1606年~
永昌大君を推戴した派閥です。
南人(ナミン)1591年~
東人から分裂した派閥です。西人が実権を掌握後は政権から遠ざかりました。西人は南人をたびたび粛清し西人を憎んでいましたが、力を持てずにいました。
南人は西学の信者が多く安東金氏の老論(ノロン)派の弾圧を受けることになります(1801年)。
南人(ナミン)の活躍ぶりについては、韓国ドラマ「トンイ」で詳しく描かれています。
南人(ナミン)の活躍ぶりについては、韓国ドラマ「トンイ」で詳しく描かれています。
老論(ノロン)
西人が分裂してできた派閥です。宋時烈(ソン・シヨル)がはじめの指導者です。老論(ノロン)は少論(ソロン)と激しく対立するも、長期的に政権を維持しました。
安東金氏(アンドンキムシ)は1800年の正祖の死後に王権が弱体化すると台頭し、勢道政治という王権を代行するほどの権力を60年間振るい続けます。金氏は娘を王の妃となり自らが国舅という国王の外戚になることで一族の栄華を享受し国が腐敗すると民は困窮し民乱が発生しました。
僻派(ピョクパ)
老論(ノロン)の一派です。一言で言うと、英祖と結託して正祖の実父、思悼世子(サドセジャ)を殺した派閥です。貞純王后側で韓国ドラマ「イ・サン」では正祖と激しく対立していました。僻派が激しく思悼世子(サドセジャ)を批判する様子は「秘密の扉」や「大王の道」で詳しく描かれています。
時派(シパ)
正祖を支えた老論(ノロン)の一派です。小論など他の党派も含みます。金鐘秀(キム・ジョンス)が領袖です。韓国ドラマ「イ・サン」で絶妙な役割を果たしていました。
少論(ソロン)
西人が分裂してできた派閥です。尹拯(ユン・スン)がはじめの指導者です。尹拯(ユン・スン)は老論の宋時烈(ソン・シヨル)と激しく対立するも勝てませんでした。
山林儒生(サンリムニュセン)
山林儒生とは朝廷に出仕せず在野で学問に専念した士です。初期の李氏朝鮮では士林派の在野の儒者を指しました。老論と少論の激しい争いを避けて山間僻地にこもった士を山林といい子弟に学問を教えるなどして民の尊敬を集めました。この時期にはすぐに謀反をでっち挙げられて死罪や流罪になる者が絶えず中央に挑むことすら命がけとなるため中央を目指し権力を志す者は少数派となりました。
実学派(シルガクパ)
老論がのさばり他の両班がつけいる隙がない中で、柳馨遠(ユ・ヒョンウォン)など批判的な学者が登場します。柳馨遠は都城(トソン)から離れた全羅道(チョルラド)の扶安郡愚磻洞に移住して村民たちと身分を越えた付き合いをしながら飢饉に備えた食糧の備蓄、外敵の侵入に備えた造船や馬の飼育を指導し「磻渓随録」という制度の改革案を著わしました。
実学思想に呼応するようにハングルが普及し民主文化が花開きました。
星湖学派(ソンホハクパ)
柳馨遠の思想は南人の李瀷(イ・イク)に受け継がれ、李瀷の門下生から星湖学派が生まれます。星湖学派の丁若鏞は1801年の天主教弾圧事件(辛酉教獄)に連座させられて配流され、農村で生涯を閉じました。丁若鏞は五百余巻という著作を遺しています。
星湖学派は中華中心の世界観に反対して西学(ヨーロッパの学問)を受容して天主教に入信する者も出ました。
正祖(チョンジョ)は星湖学派の李家煥(イ・カファン)や丁若鏞、北学派の朴斎家(パク・ジェガ)などを登用して反対派の攻撃から彼らを擁護しながら国家政治や文化政策に参加させました。ところが1800年に正祖(チョンジョ)が亡くなると、老論(ノロン)派が返り咲き李家煥(イ・カファン)は獄死し朴斎家(パク・ジェガ)と丁若鏞は配流されました。
北学派(プクハクパ)
星湖学派に共鳴して洪大容(ホン・デヨン)や朴趾源(パク・ジウォン)、朴斎家(パク・ジェガ)に代表される北学派が出現します。17世紀前半頃に清の侵入があって以来、儒者の間で清を蔑視する北伐論が流行しました。北学論は北伐論に対立する考え方です。北学派は星湖学派と異なり清と朝鮮を往来する使臣団に同行して北京の考証学派の学者やヨーロッパから来ていたイエズス会士たちと交流して広い視野を持っていました。朴趾源(パク・ジウォン)の「熱河日記」は北学派の思想書であるだけでなく紀行文として高い評価を受けています。北学派は儒者たちが小中華を自負して西洋や清、日本を蔑視していた夜郎自大(やろうじだい)的な考えに警鐘を鳴らし続けていました。
星湖学派が土地制度をはじめとする社会制度の改革に重点を置いたとすれば、北学派は富国救民のための利用・厚生をかかげて商工業の発展や科学技術の導入に重点が置かれています。
興宣大院君(フンソンテウォングン)と四色平等~鎖国
1863年に哲宗が跡継ぎのないまま亡くなります。当時の重臣には安東金氏が多勢を占めていました。当時の大王大妃趙氏は後継に李是応(イ・ハウン)の次男、李命福(イ・ミョンボク)を指名しました。李是応(イ・ハウン)は仁祖(インジョ)の三男の麟平大君(イムピョンテグン)から分かれた没落王族で世の両班と同じように暮らしていました。李是応(イ・ハウン)は哲宗の世継ぎが問題となると大王大妃趙氏に接近して安東金氏を排除する陰謀をめぐらします。この李是応(イ・ハウン)は大妃に取り入り興宣大院君(フンソンテウォングン)となったのです。興宣大院君(フンソンテウォングン)の次男、李命福(イ・ミョンボク)は十二歳で高宗に即位したのでした。
大院君(テウォングン)は高宗の摂政として政治の実権を掌握します。大院君(テウォングン)は人材登用に四色平等(老論、少論、南人、北人)を唱えて長い間政治の実権を握り続けてきた老論(ノロン)を抑えます。軍布の納税を免除されていた両班にも戸布法を施行して平等に負担するようにしました。さらに土地を調査して地方官が税を着服していた隠田を摘発し、還穀制度を調べて中間搾取していた地方官を死罪または流刑にしました。
大院君(テウォングン)は全国に六百七十九ヶ所ある書院(ソウォン)という後進を教育する場のはずが、朋党の温床となっており書院に屈服し(賄賂を治めるなどし)なければ地方行政ができなくなっていたため国王直筆の書額(扁額のもととなる書)を賜り土地や奴婢(ノビ)を与えられた賜額書院四十七ヶ所を残して老論派の領袖(りょうしゅう)宋時烈(ソン・シヨル)を祀る忠清道清州の華陽書院をはじめとしてすべて廃止しました。
また王室の権威を高めるために豊臣秀吉の侵攻で焼失していた景福宮(キョンンボックン)の再建工事を行いました。この莫大な費用をかけた工事が民衆の怒りを買うことになりました。
やがてロシアとフランス、イギリス、アメリカなどが朝鮮に不平等な要求を突きつけて来ました。1866年、興宣大院君(フンソンテウォングン)はフランス人宣教師を処刑して天主教徒を弾圧しました。この事件を口実にフランスは軍艦七隻を率いて同じ年に江華島に上陸します。大院君(テウォングン)はフランス軍を撃退しました。またアメリカの武装船シャーマン号が大同江を平壌近くまで侵入した際にも大院君(テウォングン)は船を焼き討ちにしました。これを口実に開国と通商を迫ったアメリカを大院君(テウォングン)は武力での撃退を命じました。1871年、大院君(テウォングン)は鎖国攘夷策を固めます。
この様子は「ドクタージン」でちょっぴり描かれています。
閔氏と守旧派
大院君(テウォングン)の過激な政策に反対する勢力が、二十二歳になった高宗(コジョン)を理由に国王親政を要求して大院君(テウォングン)は政治から退きました。大院君(テウォングン)を隠居に追いやった京畿道驢興閔氏(キョンギドヨフンミンシ)による勢道政治がはじまりました。
大院君(テウォングン)は慎重に高宗(コジョン)の妃を選びましたが、その妃が驢興閔氏から選ばれた閔妃(ミンビ)でした。
閔氏は大院君(テウォングン)に不満を抱いていた勢力と結託して大院君(テウォングン)を追い出したのです。
この騒乱で大院君(テウォングン)が失脚して有利と判断した日本は1875年に江華島事件を起こして1876年に江華島条約を要求しました。大院君(テウォングン)は反日政治家だったといわれますが、勝海舟を「徳川氏の宗廟が絶たないようにした功績」を高く評価し、大院君(テウォングン)と勝海舟の親交は1898年に大院君(テウォングン)が世を去るまで続きました。
閔氏一族は清と従来通りの関係を守ろうとしたため守旧派と呼ばれました。
安東金氏や閔氏が税穀米を着服する様子や閔妃が殺される事件は「客主(ケクチュ)~商売の神」で少し描かれています。
開化派
1882年、朝鮮は米朝修好通商条約を結びました。翌年、朝鮮はアメリカに使節団を派遣します。正使は閔泳翊(ミン・ヨンイク)、副使は洪英植(ホン・ヨンシク)、従事官(チョンサガン)は徐光範(ソク・ワンボム)でした。随行員は兪吉濬(ユ・ギルチュン)と高永喆(コ・ヨンチョル)、崔道敏(チェ・ドミン)、玄光澤(ヒョン・グァンテク)、邊燧(ビョンス)、そして中国人の呉礼堂が同行しました。秘書としてアメリカ人のパーシバル・ローエルと、通訳として富岡恒次郎という十七歳の日本人少年が随行しています。
兪吉濬(ユ・ギルチュン)は福沢諭吉の京王技術大学に1881年に留学していた経験がありました。
閔泳翊(ミン・ヨンイク)は閔妃の甥で守旧派の中心人物でした。
閔泳翊(ミン・ヨンイク)が登場するドラマは「客主(ケクチュ)商売の神」で描かれています。
開化派の洪英植(ホン・ヨンシク)や徐光範(ソク・ワンボム)は閔泳翊(ミン・ヨンイク)の考えを変えさせ、閔泳翊は高宗(コジョン)や閔妃に働きかけて上からの近代化のために尽力しましたが甲申政変(カプシンチョンビョン)が起きました。
開化派は興宣大院君(フンソンテウォングン)が1871年に辛未洋擾(シンミヤンヨ)という朝鮮がジェネラル・シャーマン号襲撃事件(1866年)の報復のため江華島に来たアメリカの軍艦を襲撃した事件の頃より大院君(テウォングン)の鎖国政策に反対した者たちがいました。当時右議政にまで登りつめた北学派の朴趾源(パク・チウォン)の孫朴枉寿(パク・キュス)をはじめ中人(チュンイン)の訳官呉慶錫(オ・ヨンソク)、医官の劉鴻基(ユ・ホンキ)らでした。朴枉寿(パク・キュス)の門下生には金玉均(キム・オクキュン)、洪英植(ホン・ヨンシク)、金允植(キム・ユンシク)兪吉濬(ユ・ギルチュン)ら両班の少壮派(=若くて元気な人たち)が集まり清国と日本で得た情報により世界の動向への朝鮮の対応を論じ合いました。
金允植(キム・ユンシク)と兪吉濬(ユ・ギルチュン)は穏健派でしたが金玉均(キム・オクキュン)、洪英植(ホン・ヨンシク)、徐光範(ソク・ワンボム)、朴泳孝(パク・ヨンヒョ)、徐戴弼(ソ・ジェピル)は急進派でした。彼らは日本公使館の兵士百五十名の協力を受けて1884年12月4日に閔氏を中心とした旧派政権を打倒して開化政権を樹立しました。しかし2日後の12月6日に朝鮮に駐留していた清の千五百名の兵士が武力介入したために政変は失敗し加担した者のほとんどが殺害されました。金玉均(キム・オクキュン)ら首謀者九名は日本に亡命しました。
日本に亡命した金玉均(キム・オクキュン)、朴泳孝(パク・ヨンヒョ)は朝鮮から派遣された刺客に狙われ日本政府は彼らの行動を制限しました。1886年8月には金玉均(キム・オクキュン)は小笠原諸島に、1888年8月には北海道に軟禁され東京に戻れたのは1990年4月でした(日本視点では保護したつもりと思いますが、著者視点では恨み節のように思われましたが、引用のため本の通りに書いてます)。
金玉均(キム・オクキュン)は軟禁され日本を拠点とした政治活動ができなかったため、朝鮮の守旧派の後ろ盾となっていた清国の李鴻章に、西洋のアジア侵略に対抗するためには日本と朝鮮と中国が連帯しなければならないとする「三和主義」を説得するために1894年に上海に渡りましたがアメリカ租界の「東和洋行」に宿泊したところ、日本から同行した洪鐘宇(ホンジョンウ)という刺客に射殺され44歳の生涯を閉じました。
開化派は興宣大院君(フンソンテウォングン)が1871年に辛未洋擾(シンミヤンヨ)という朝鮮がジェネラル・シャーマン号襲撃事件(1866年)の報復のため江華島に来たアメリカの軍艦を襲撃した事件の頃より大院君(テウォングン)の鎖国政策に反対した者たちがいました。当時右議政にまで登りつめた北学派の朴趾源(パク・チウォン)の孫朴枉寿(パク・キュス)をはじめ中人(チュンイン)の訳官呉慶錫(オ・ヨンソク)、医官の劉鴻基(ユ・ホンキ)らでした。朴枉寿(パク・キュス)の門下生には金玉均(キム・オクキュン)、洪英植(ホン・ヨンシク)、金允植(キム・ユンシク)兪吉濬(ユ・ギルチュン)ら両班の少壮派(=若くて元気な人たち)が集まり清国と日本で得た情報により世界の動向への朝鮮の対応を論じ合いました。
金允植(キム・ユンシク)と兪吉濬(ユ・ギルチュン)は穏健派でしたが金玉均(キム・オクキュン)、洪英植(ホン・ヨンシク)、徐光範(ソク・ワンボム)、朴泳孝(パク・ヨンヒョ)、徐戴弼(ソ・ジェピル)は急進派でした。彼らは日本公使館の兵士百五十名の協力を受けて1884年12月4日に閔氏を中心とした旧派政権を打倒して開化政権を樹立しました。しかし2日後の12月6日に朝鮮に駐留していた清の千五百名の兵士が武力介入したために政変は失敗し加担した者のほとんどが殺害されました。金玉均(キム・オクキュン)ら首謀者九名は日本に亡命しました。
日本に亡命した金玉均(キム・オクキュン)、朴泳孝(パク・ヨンヒョ)は朝鮮から派遣された刺客に狙われ日本政府は彼らの行動を制限しました。1886年8月には金玉均(キム・オクキュン)は小笠原諸島に、1888年8月には北海道に軟禁され東京に戻れたのは1990年4月でした(日本視点では保護したつもりと思いますが、著者視点では恨み節のように思われましたが、引用のため本の通りに書いてます)。
金玉均(キム・オクキュン)は軟禁され日本を拠点とした政治活動ができなかったため、朝鮮の守旧派の後ろ盾となっていた清国の李鴻章に、西洋のアジア侵略に対抗するためには日本と朝鮮と中国が連帯しなければならないとする「三和主義」を説得するために1894年に上海に渡りましたがアメリカ租界の「東和洋行」に宿泊したところ、日本から同行した洪鐘宇(ホンジョンウ)という刺客に射殺され44歳の生涯を閉じました。
東学
1894年、全羅道(チョルラド)の古阜民乱(コブミンラン)が拡大して甲午農民戦争(党学党の乱)に発展します。東学とは、西学と天主教に対する信仰主教で民衆の中に広まりました。東学の創始者崔済愚(チェ・ジウ)は「人乃天(人すなわち天)」天人一如による「保国安民」を唱え封建的差別に反対する民衆に受け入れられました。崔済愚(チェ・ジウ)は邪教の唱導者として1864年に大邱(テグ)で処刑されました。二代目の教祖となった崔時亨(チェ・シヒョン)は禁書となっていた東学の経典「東経大典」や「龍潭遺詞」の刊行と普及につとめながら「包」や「接」などの秘密結社を広めて行きました。通商修好条約を結んだ朝鮮は天主教の布教は認めましたが東学は認めず地方官は農民を東学だと決めつけ迫害と収奪をほしいままにしました。
崔時亨(チェ・シヒョン)らは1892年に全羅道(チョルラド)参礼駅(チャムレヨク)で、1893年4月には忠清道報恩郡(チュンチョンドポオンクン)で集会を開いて初代教祖の崔済愚(チェ・ジウ)の伸冤(しねん、無実の罪を晴らすこと)と、東学農民への迫害と収奪に抗議しました。しかし軍が動いたため彼らはいったん解散しました。
これらの集会に参加した全羅道(チョルラド)の全琫準(チョン・ボンジュン)、孫和中(ソンファジュン)、金開南(キム・ケナム)らは農民たちを火縄銃や竹槍などで武装させ1894年2月に政府軍と武力衝突を起こし、モーゼル銃やクルップ式野砲で武装した政府軍を圧倒し6月1日に全羅道(チョルラド)の首府全州に入城しました。この農民戦争は「逐滅倭洋(日本と西洋を亡ぼす)」「滅尽権貫(特権階級を亡ぼす)」「駆兵入京(農民を率いて都城(トソン)に入城する)」などのスローガンを掲げた反侵略・反封建運動でした。
閔氏一派は清国に武力介入を要請し、その軍隊が忠清道の牙山湾に上陸しました。日本軍は清国に対抗して一方的に仁川に上陸して漢陽(ハニャン)の都城(トソン)に進出し朝鮮の政府は全州和約を締結しました。
甲牛農民戦争は失敗に終わりましたが、農民軍側が突きつけた弊政改革案を政府は全州和約に反映せざるを得ませんでした。
1894年7月2日、朝鮮に駐留する日本軍は、同じく朝鮮に駐留している清国を攻撃して日清戦争が起き、清国に勝利した日本は閔氏をクーデターで排除し、金弘集(キム・ホンシブ)、金允植、魚允中(オ・ユンジュン)、兪吉濬(ユ・ギルチュン)穏健な開化派を中心として金弘集政権が誕生しました。日本に亡命していた朴泳孝(パク・ヨンヒョ)やアメリカに亡命していた徐光範(ソク・ワンボム)らも政権に参加しました。
1894年7月から1896年2月にかけて行われた一連の改革を甲午改革といい、制度上では封建的な旧体制が解体され、近代的な諸制度が実施されました。科挙は廃止され、普通試験、特別試験で両班と常民の区別なく人材を登用すること、行政権から司法権を分離して罪人連座制を排ししたこと、奴婢法の廃止と人身売買の禁止、早婚の禁止と女性の再婚の自由と封建的な身分制が廃しされ、近代的な学校制度がはじまりました。
金弘集の政府は日本軍とともに農民軍を弾圧しました。
1895年、全琫準(チョン・ボンジュン)は処刑されました(民衆から見ると英雄です)。閔妃や高宗(コジョン)の側近たちは日本を排除して再び権勢を得るためにロシアに接近します。しかし10月、日本公使の三浦梧楼(みうらごろう)は日本人のグループが隠退していた大院君(テウォングン)を担ぎ出して親日的な朝鮮軍内の訓練隊と合流して閔妃を殺しました。その場面を目撃していた二人の西洋人がいたため国際問題へと発展しました。日本政府は日本人のグループを広島県の監獄に拘留したものの、翌年1月には無罪釈放します。朝鮮国内ではこのことに反対する反日の気運が高まり柳麟錫(ユ・リンソク)など著名な儒者たちの呼びかけで反日義兵運動がひろまります。
1896年、高宗(コジョン)は王宮から脱出してロシア公使館に移り、2月13日に都城(トソン)の民衆蜂起により金弘集政府は倒れました。甲午改革も失敗に終わりました。
徐光範(ソク・ワンボム)は1896年に「独立新聞」を刊行すると、市民による政治運動が盛んになり万民共同会の抗議活動により朝鮮の政治に介入していたロシアも1898年には手を引きました。徐光範(ソク・ワンボム)は政府から圧力を受け、アメリカに戻らざるを得なくなりました。
崔時亨(チェ・シヒョン)らは1892年に全羅道(チョルラド)参礼駅(チャムレヨク)で、1893年4月には忠清道報恩郡(チュンチョンドポオンクン)で集会を開いて初代教祖の崔済愚(チェ・ジウ)の伸冤(しねん、無実の罪を晴らすこと)と、東学農民への迫害と収奪に抗議しました。しかし軍が動いたため彼らはいったん解散しました。
これらの集会に参加した全羅道(チョルラド)の全琫準(チョン・ボンジュン)、孫和中(ソンファジュン)、金開南(キム・ケナム)らは農民たちを火縄銃や竹槍などで武装させ1894年2月に政府軍と武力衝突を起こし、モーゼル銃やクルップ式野砲で武装した政府軍を圧倒し6月1日に全羅道(チョルラド)の首府全州に入城しました。この農民戦争は「逐滅倭洋(日本と西洋を亡ぼす)」「滅尽権貫(特権階級を亡ぼす)」「駆兵入京(農民を率いて都城(トソン)に入城する)」などのスローガンを掲げた反侵略・反封建運動でした。
閔氏一派は清国に武力介入を要請し、その軍隊が忠清道の牙山湾に上陸しました。日本軍は清国に対抗して一方的に仁川に上陸して漢陽(ハニャン)の都城(トソン)に進出し朝鮮の政府は全州和約を締結しました。
甲牛農民戦争は失敗に終わりましたが、農民軍側が突きつけた弊政改革案を政府は全州和約に反映せざるを得ませんでした。
1894年7月2日、朝鮮に駐留する日本軍は、同じく朝鮮に駐留している清国を攻撃して日清戦争が起き、清国に勝利した日本は閔氏をクーデターで排除し、金弘集(キム・ホンシブ)、金允植、魚允中(オ・ユンジュン)、兪吉濬(ユ・ギルチュン)穏健な開化派を中心として金弘集政権が誕生しました。日本に亡命していた朴泳孝(パク・ヨンヒョ)やアメリカに亡命していた徐光範(ソク・ワンボム)らも政権に参加しました。
1894年7月から1896年2月にかけて行われた一連の改革を甲午改革といい、制度上では封建的な旧体制が解体され、近代的な諸制度が実施されました。科挙は廃止され、普通試験、特別試験で両班と常民の区別なく人材を登用すること、行政権から司法権を分離して罪人連座制を排ししたこと、奴婢法の廃止と人身売買の禁止、早婚の禁止と女性の再婚の自由と封建的な身分制が廃しされ、近代的な学校制度がはじまりました。
金弘集の政府は日本軍とともに農民軍を弾圧しました。
1895年、全琫準(チョン・ボンジュン)は処刑されました(民衆から見ると英雄です)。閔妃や高宗(コジョン)の側近たちは日本を排除して再び権勢を得るためにロシアに接近します。しかし10月、日本公使の三浦梧楼(みうらごろう)は日本人のグループが隠退していた大院君(テウォングン)を担ぎ出して親日的な朝鮮軍内の訓練隊と合流して閔妃を殺しました。その場面を目撃していた二人の西洋人がいたため国際問題へと発展しました。日本政府は日本人のグループを広島県の監獄に拘留したものの、翌年1月には無罪釈放します。朝鮮国内ではこのことに反対する反日の気運が高まり柳麟錫(ユ・リンソク)など著名な儒者たちの呼びかけで反日義兵運動がひろまります。
1896年、高宗(コジョン)は王宮から脱出してロシア公使館に移り、2月13日に都城(トソン)の民衆蜂起により金弘集政府は倒れました。甲午改革も失敗に終わりました。
徐光範(ソク・ワンボム)は1896年に「独立新聞」を刊行すると、市民による政治運動が盛んになり万民共同会の抗議活動により朝鮮の政治に介入していたロシアも1898年には手を引きました。徐光範(ソク・ワンボム)は政府から圧力を受け、アメリカに戻らざるを得なくなりました。
まとめ
以上この辺りまでが李氏朝鮮における派閥党争です。李氏朝鮮の終わり頃には農民や漢陽(ハニャン)の民衆といった社会の底辺の人々がリーダー指導のもとで蜂起して、自分たちも軍が手に負えないほどの大勢で集まれば政府に政治的な要求を飲ませることができる(かもしれない)という、西欧型の民主運動が浸透しましたが、この時点では農民はまだ弾圧される側で漢陽(ハニャン)の市民ほど力を持っていなかったようですね。
李氏朝鮮は士林派という高麗の旧臣派で勲旧派を恨んでいた派閥から派生した西人が老論となり大臣の座を占めていたことがわかりました。
実のところ、この記事を書くのに丸3日もかかってしまいました。時代劇鑑賞が私の趣味とはいえ、しっかりと学ぶにはやはりそれなりに時間が必要なのだとわかりました。今回は功西と功西(金尚憲・申欽率)、原党(元斗杓、仁祖の味方、反光海君)、洛党(金自點、光海君の味方)、漢党(金堉・李時)、山党(金集・宋浚吉・宋時烈率)については調べる手がかりがなく省かせていただきました。