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思悼世子(サドセジャ=荘献世子, 사도세자 )イ・ソン李愃 - 李氏朝鮮に実在した人物

思悼世子(サドセジャ=荘献世子=사도세자 

韓国ドラマ「秘密の扉」や「大王の道」「イ・サン」などにたびたび登場する思悼世子(サドセジャ)イ・ソン(李愃)。大抵は父親に虐待され心を病んだ王子として描かれています。名君イ・サンこと正祖(チョンジョ)の父、思悼世子(サドセジャ)はどのような人物だったのでしょうか。

概要

思悼世子(サドセジャ)は李氏朝鮮の追尊王(ついそんおう)であり大韓民国の追尊皇帝(ついそんこうてい)です。字(あざな)は允寬(ユンガン)、本貫は全州(チョンジュ)です。朝鮮国王である英祖(ヨンジョ 영조)の次男であり正祖(チョンジョ 정조)の父親です。母親は暎嬪李氏(ヨンビンイシ 영빈 이씨)で正妻は恵敬宮洪氏(ヘギョングンホンシ 혜경궁 홍씨)です。父親である英祖(ヨンジョ)に米びつに閉じ込められて死んだことで有名です。

時代背景

思悼世子(サドセジャ)イ・ソンが生きていた時代は、父親である英祖(ヨンジョ)が老論(ノロン)派を自分の勢力として登用し、その勢力を抑えるために少論派を同時に登用させて戦わせていました。英祖(ヨンジョ)は老論(ノロン)派をけん制するために世子の学問の師匠に少論派を登用しました。しかし実際には思悼世子(サドセジャ)は少論の支持だけでなく老論派からも擁護を受けており、世子の死の原因は党派争いが関わっているというよりも英祖による虐待そのものであったことがわかります。

誕生

イ・ソン(李愃)が生まれたのは1735年です。父親の英祖(ヨンジョ 1695年-1776年)が即位して11年目、日本では江戸時代の後半、享保20年、将軍徳川吉宗が退位する1年前にあたります。

家族

  • 実父・・・英祖(ヨンジョ 1695年-1776年)
  • 実母・・・宣禧宮義烈昭裕映嬪(全義李氏、1696年-1764年)
  • 義母
    • 貞聖王后(達城徐氏 -1757年)
    • 貞純王后(新安東金氏 1745年-1805年)
  • 義父・・・洪鳳漢(ホン・ボンハン)妻の父
英祖(ヨンジョ)
英祖(ヨンジョ)
wikiから転載

洪鳳漢
洪鳳漢

  • 孝章世子・・・李緈。正室の息子。英祖(ヨンジョ)の長男。夭折。養子にイ・サン。

  • 正室・・・献敬王后(豊山洪氏 1735年-1815年)イ・サンの生母。王家の血筋。老論派の娘。
  • 側室
    • 粛嬪林氏
    • 景嬪朴氏
    • 守則李氏

王子

  • 長男・・・琔(懿昭世子)・・・生後2年で夭折
  • 次男・・・祘(正祖)・・・イ・サンのこと。英祖の次の国王。
  • 側室の息子・・・䄄(恩彦君)哲宗の祖父。全渓大院君の実父。
  • 側室の息子・・・禶(恩全君)

王女

  • 清衍郡主・・・正妻の娘。結婚して子孫を産んだ。
  • 清璿郡主・・・正妻の娘。結婚して子孫を産んだ。
  • 清瑾翁主・・・側室の娘。

生涯

子どもの頃

思悼世子(サドセジャ)イ・ソン(李愃)は1735年(英祖11年)1月21日、英祖と映嬪(ヨンビン)との間に生まれました。当時英祖(ヨンジョ)は長男孝章世子(ヒョジャンセジャ)を7年前に失い嫡男がいなかったため42歳(※数え歳)で得られた王子の誕生を非常に喜んでいました。英祖(ヨンジョ)は映嬪が出産する場面を見ていました。

英祖(ヨンジョ)は思悼世子(サドセジャ)が生まれると、生後100日目に母の映嬪から離され内侍(ネシ)と内人(ナイイン)の手で育てられました。すぐに貞聖王后(チョンソンワンフ)の養子に入籍させ、1736年に元子(ウォンジャ)になりました。成均館(ソンギュングァン)の蕩平碑(탕평비)は英祖(ヨンジョ)が世子の入学を記念して作らせたといいます。

世子は聡明な姿をたくさん見せました。生後4か月で、6か月で英祖の呼びかけに応えることができ、7か月目で東西南北がわかり、2歳で漢字を学び60以上の文字が書けました。3歳のときには千字文を習い、다식을というお菓子を貰った時に、「壽」と「福」という字が書かれたものは食べ、八卦が書かれたものは食べなかったそうです。宮女たちが「お召し上がりください」と言うと「八卦は宇宙の根本だから食べない」と言ったそうです。閑中録と実録には世子が幼くして絹や七宝の贅沢を好まず木綿のような質素を好んでいたエピソードが記録されています。英祖(ヨンジョ)は世子をたいへん可愛がり、寵愛していました。

しかし英祖が世子を住まわせた場所は不吉な場所でした。このことが世子によってよくなかったと妻の恵敬宮洪氏(ヘギョングンホンシ)は後で述べています。世子の住まいは先王景宗の妃、宣懿王后の寝殿を改修したものでした。世子は先王妃の宮女たちに世話をされました。禧嬪張氏が滞在し、 仁顯王后ミンを罵倒したことで有名な就善堂を焼厨房(ソジュバン)に改修して世子の食事が作られました。このことが世子が精神を病む原因になったのではないかと言われています。

英祖(ヨンジョ)の立場にしてみると、先王妃の宮仕えに世子の世話をさせることによって景宗毒殺説を封印するためのようであったが、このことが混乱を生じさせました。また、王妃の映嬪は6歳の時に宮に上がり、肅宗の下で働いていた折に、肅宗の継妃である仁元王后の目にとまり英祖(ヨンジョ)の後宮に入ったと記されています。だから景宗に仕えていた宮女にとって映嬪は見下されたこともあり、実際に英祖の正室の養子に入りました。思悼世子(サドセジャ)は母の映嬪の腕の中から引き離されました。

恵敬宮洪氏(ヘギョングンホンシ)は宮にも問題ああったと回想しています。世子が怠けて兵士遊びをするようになったのは、東宮の宮や世子侍講院(シガンウォン)の規律に問題があったと述べています。パク・グムソクという者が王世子が帰還するときに酒に酔い乱暴を働き取り調べを受けた事件があったし、ソン・インミョンやパク・ムンス(朴文秀、ドラマ秘密の扉にも出てきた官僚)が世子の世話をする内官や宮女に「世子に悪い影響を与えないように」忠告していました。医官のキム・スギュという者が世子にユヨンモクという乗り物を与えて問責を受けたこともありました。

父との葛藤

思悼世子(サドセジャ)と父英祖(ヨンジョ)との関係悪化は早くから始まりました。英祖(ヨンジョ)は世子が3歳になるまでたいへん可愛がりましたが、4際の時から虐待して叱るようになりました。期待が大きかったせいか英祖は世子をきびしく育て、9歳のときには世子は父と会うことを恐れるようになりました。10歳を過ぎると英祖の態度はますます厳しくなり、褒めることが急激に少なくなりました。英祖は思悼世子(サドセジャ)を精神的に虐待していました。

英祖は歴代の王が還暦を迎えずに世を去ったことに焦りを感じていました。歴代の国王たちは激務で平均死亡年齢は40代半ばから後半でした。思悼世子(サドセジャ)が生まれた時に英祖は既に42歳(※数えで)でした。先王たちを見るといつ死んでもおかしくない年齢に達していました。英祖(ヨンジョ)の立場では死ぬ前に世子が王になる準備をさせたかったのかもしれません。結果的に英祖は長寿をまっとうし、厳しい教育も世子が世孫を生んでも長生きしていました。英祖(ヨンジョ)自身そこまで長生きするとは思ってもいなかったことでしょう。

当然、このような親子関係では幼い息子が父を見て怯えずに安心していられることはできません。このため、世子は健康を害し、これを口実に英祖との進見(ジンヒョン)を続けて欠席しました。

恵敬宮洪氏(ヘギョングンホンシ)の主張によると、二人の性格がとても異なっていたため衝突が多かったと述べています。英祖(ヨンジョ)は集めた臣下の前で思悼世子(サドセジャ)に恥辱を与えるということをよく行っていました。

英祖は世子に厳しい勉強を強要しました。1743年、9月頃から世子にめまいの症状がではじめます。世子師は英祖に先に治療を受け休息をとるように進言しますが英祖は仮病と思い臣下の忠告を受け入れませんでした。

英祖と思悼世子(サドセジャ)の性格は違っていました。英祖(ヨンジョ)は入念に察して行動も素早い性格でしたが世子は(父が怖くて)寡黙で行動を早くすることができないと言われています。したがってすべてのことが父は気に入りませんでした。問いかけの言葉にもすぐに答えず英祖は毎回窮屈に感じたと言います。(筆者の見解では本来の世子の性格というより乳幼児期から虐待されて育ったので王ではなく奴婢のような振舞いになるのは当然ともいえる。)

代理聴政とその後

一方で英祖は自分が王位に欲がないことをアピールするためによく禪位(譲位=禅位)活動を行いました。思悼世子(サドセジャ)が2歳の時に英祖が行った禅位行動は2歳の者に責任が取れなかったので何ともありませんでしたが、世子が15歳のときに行われた英祖25年の禅位行動は「禅位が嫌なら代理聴政でもしろ。嫌なら禅位する。」と英祖が言ったので、禅位より一段階低い代理聴政に繋がりました。そして、このことが稀代の悲劇の出発点になりました。英祖の代理聴政はうわべの言葉だけの代理聴政でショーに過ぎず、実際に自分の仕事を息子に任せるつもりはありませんでした。しかしすぐに、英祖25年の2月16日に事件は起きました。思悼世子(サドセジャ)は初日に左議政ジョ・ヒョンミョンの進言に「そうしてください」と言い、英祖はそれを否定して初日から左議政と世子の結論を覆し自分の言葉を破り思悼世子(サドセジャ)に落胆の言葉を浴びせました。このような状況で勝手に何かをすることができたのでしょうか? 世子は言葉だけ代理聴政で "そうしてください"、 "なりませぬ"、 "父上と相談して決めます"この言葉しかありませんでした。 代理聴政をしながら全権を行使することを認めてくれた世宗(セジョン)や順宗とは対照的でした。もちろん、この時期の世宗(セジョン)は英祖とは異なり健康の悪化でそろそろ自分の死後を準備しようとしていた理由もありました。しかし、それを勘案しても世子(文宗)の世宗(セジョン)の信頼は絶対であり、代理聴政時期には世子の威厳を立てるための仕事の進行方向のみ定め、ほとんどの事は世子の意のままに処理することにしていました。代理聴政以前にも、文宗は世子の資格で父王世宗(セジョン)の各種政策の決定に参加してきました。実際に世宗(セジョン)後半の治世は文宗が行っていました。もちろん文宗の政治観が父世宗(セジョン)のそれと非常に似ており、親子の間が非常によかったという点も無視できない要素です。英祖と思悼世子(サドセジャ)の場合、正反対であったわけであり、世宗(セジョン)の場合は権限委譲の最高の実践であったといえる。

父を恐れていた世子は英祖の顔色を見てビクビク震えないことはありませんでした。

一方で禅位が世子を悩ませ、世子が涙を流して宮を出ていくこともありました。見かねた臣下たちが英祖に抗議しても無謀に終わりました。世子を支持した臣下たちの中には少論の大臣だけでなく老論の大臣も相当数ありました。これは思悼世子(サドセジャ)の死が党派争いではなく、英祖の独断的な決定が非常に大きな影響を及ぼしている反証です。そもそも英祖が思悼世子(サドセジャ)を虐待する姿が党派争いや政治的立場よりも家臣一人ひとりが見てもよく見えたはずがありません。

禅位運動と関連して一度このようなことがありました。思悼世子(サドセジャ)18歳の冬、世子をはじめとする王族がはしかの病にかかりました。当時はしかは死ぬ病であったんもかかわらず、英祖は代理聴政がよくなかったとして病にかかりまだ1か月しか経っていない世子を真冬に3日席藁待罪させました(英祖28年11月4日)。

さらに悪いことに思悼世子(サドセジャ)の姉、和協翁主は20歳の若さで夭折しました。英祖は翁主が死んで2週間も経っていない時点で禅位すると言いだします。思悼世子は1752年12月8日から19日まで延々十近く再び雪原で石膏大罪をしなければなりませんでした。 

虐待が激しくなる渦中に思悼世子(サドセジャ)を擁護してくれた祖母と嫡母が相次いで亡くなり、世子は耐え切れなくなり精神に異常をきたして女官を殺し、宮殿から逃亡して平壌(ピョンヤン)まで遊びに行くなど様々な奇行を繰り広げるようになりました。世子が人の足音を聞いただけでも心臓が飛び出し死のうとすると報告が上がり、生母の映嬪もたいへん心配していました。

代理聴政が始まって以来、英祖が思悼世子(サドセジャ)にした仕打ちは理解できないレベルに達していました。

1755年。思悼世子(サドセジャ)の生母である映嬪が病気になり寝込んでいました。そこに世子がお見舞いに行った時に妹のファワン翁主がいました。英祖はファワン翁主の傍に世子がいるのを見ただけで怒りを爆発させました。思悼世子(サドセジャ)は英祖の出ていけ!という言葉に慌てて窓から自分の御所まで逃げたと言います。

1756年5月1日、英祖は酒を飲んでいない思悼世子(サドセジャ)に酒を飲んだことを告白するように責め立てました。また英祖は臣下が部屋を出る際に倒した燭台から火がついたことを思悼世子(サドセジャ)が放火したと決めつけました。



また、英祖は思悼世子の誕生日である毎年1月21日に臣下を集めて、その前に世子を立て据えて叱りました。 子を他の人々が見る前で叱るのは、消えないトラウマを残すことができる最悪の教育法です。

一国の世子が窓を越えて逃げ自殺騒動だけ数回を数えなければならない状況でした。 そして運動運動だからといってて頭が血が出るように床に叩きつけながらショーをしなければならないし、心的負担で気絶までして正気を維持にならないほどでした。

1760年に世子が温泉に療養に移動するときにも護衛の兵力はわずか500人に過ぎず、世子に続く賓客もいませんでした。

思悼世子(サドセジャ)は父から人間扱いされませんでした。

英祖と思悼世子(サドセジャ)は戻れない道を行くことになります。

精神疾患

世子は、最終的に人倫に反する犯罪を犯し始めました。暴行、強姦、殺人、数多くの宮女たちを性的暴行して内官と内人(ナイイン)を多くは1日に6人まで殺しました。その数は100人にのぼったといわれています。

 父王英祖にひどい叱責を聞い残りの精神が大きく疲弊したことだけは間違いない事実であるようです。 

当時の記録を見ると、これらの思悼世子の荒廃した精神状態が確実に表れています。

(※本当かねつ造かはわかりませんが・・・。)

米びつ事件

最終的に、英祖(ヨンジョ)は思悼世子(サドセジャ)を米びつに閉じ込めて殺します。1762年の5月13日に英祖は28歳の思悼世子(サドセジャ)を廃位して米びつに閉じ込めるように命じました。その8日後に思悼世子(サドセジャ)は死にました。

思悼世子(サドセジャ)は米びつを見て二度刀を奪い自殺しようとしましたが阻まれました。

英祖(ヨンジョ)は世孫イ・サンと恵敬宮を実家のホン・ボハンの家に帰らせました。

最初は皆数日すれば世子を解放すると思っていましたが、そうはなりませんでした。米びつを見張っている兵士たちは世子から話しかけられてとてもつらかったといいます。

1日に1度、米びつを開けて中を確かめると7日目には世子は反応しなかったと言います。世子は既に死んでおり、遺体を取り出したのが8日目と考えられます。世子には小便を受けて飲んだ跡があったそうです。

英祖(ヨンジョ)はホン・ボンハンなど世子の周囲の人物を罰しました。

世子が賜死させられなかった理由は世孫(セソン)を守るためという説があります。世孫(セソン)を次の王にするためには思悼世子(サドセジャ)を罰して殺すことはできませんでした。英祖(ヨンジョ)は思悼世子(サドセジャ)に自害することを勧めていました。

その後

承政院(スンジョンウォン)日記は廃棄され、思悼世子(サドセジャ)についての記録はあまり残っていません。現代では思悼世子(サドセジャ)を再評価する動きも見られ、朝鮮史上最高の論争の的のひとつとなっています。

陰謀論

一般的に普及しているのが老論の陰謀論です。 貞純王后金氏とギム・グィジュ、洪鳳漢(ホン・ボンハン)などが世子が親少論(ソロン)であることを恐れてやったという説ですが、根拠に乏しいです。なぜなら世子が信じていたのは義父のホン・ボンハンだからです。しかも貞純王后金氏の金一族と洪一族は同じ老論といえども不倶戴天の敵でした(ということは安東(アンドン)金氏の陰謀かも・・・)。

英祖(ヨンジョ)の精神障害と考察

もしも英祖が正気でなかったとしたら、現代の精神医学では妄想性パーソナリティー生涯と診断されるようです。現代でも当時でも、未来からでも、どう見ても、これは理由なき虐待です。当時の栄養状態や衛生状態ではビタミンが欠乏して国王が正気を失っていてもおかしくありません。

英祖(ヨンジョ)は度々禅位パフォーマンスをして、思悼世子(サドセジャ)を犠牲にしていることから、かなり自己愛が強いのではないかと思います。デキる自分は素晴らしいと思い込んでいたのかもしれません。その背景には自分は血筋で劣っているという劣等感が強かったことは言うまでも無いと思います。勉強が三度の飯より大好きな人間にとって食欲旺盛で活発で正直な体育会系に対する偏見は極めて強かったのではないかとも思います。いわゆるエリートであることをたいへん誇りに思っていて、それを息子にも強制したかったのだと思います。逆に言うと、それ以外の道を知らなかったといえます。

思悼世子(サドセジャ)の精神障害と考察

思悼世子(サドセジャ)は英祖(ヨンジョ)の迫害による重症性双極性障害であったと診断できます。

代理聴政治での思悼世子(サドセジャ)の言葉は、私から見ると「普通」です。つまり政治的な駆け引きなどド素人の青年です。疑うことも知らぬ若者です。これは政治家としてはプロではありません。世子は人を憎むことを知らない人間なんだと思いました。世子が父でも誰でも誰かひとりでも憎むことができたなら、信じないということを学習したかもしれません。政治は信じないことからはじまりますからね・・・。思悼世子(サドセジャ)は頭の使い方を学ばなかったので、それが地獄のはじまりになったという印象を受けました。時には父を欺くことも考えていたなら、こんなにならなかったと思います。

二人の性格の違い

英祖(ヨンジョ)は文人タイプであるのに対し、思悼世子(サドセジャ)は武芸を好み体格もよい武人、太祖(テジョ)タイプであったと言われています。

政治的立場

英祖(ヨンジョ)は老論の支持を受けていましたが、思悼世子(サドセジャ)は老論と少論の両方の支持を受けていました(つまり、将来有望でした)。

日本人の筆者から見た感想

もともと現代から見たら李氏朝鮮は狂っている環境なので、学者肌の英祖(ヨンジョ)が思い込みを深めて虐待をしつけと勘違いしていても、それを正すための情報がありませんので、厳しくすればするほど行動を正せると勘違いしていても当然だと思います。明日死ぬかもしれない英祖(ヨンジョ)が子どもらしく遊んでいる息子を見たら、焦りを感じるのも当然です。もともとあった英祖(ヨンジョ)の劣等感(卑しい身分から生まれた庶子)は、正一品など「大監(テガム)」と呼ばれる大臣と比べると明らかに見劣りしますので、政治家として英祖(ヨンジョ)は恥ずかしい思いをしながら、危うく張氏に殺されるかもしれなかった危機感を感じながら生きてきたことは想像に難くありません。

思悼世子(サドセジャ)も臣下のせいで年相応の「遊び」に目覚めてしまい、勉学を怠ってしまいました。まだ幼児なので責めることはできませんし、後から自覚すればまだ伸びる余地はあったと思います。

世子の病気のサイクルは次の通りになると思います。
  1. 英祖(ヨンジョ)に虐待される
  2. 脳のエネルギーが無くなる
  3. エネルギーが回復しかける
  4. また父に虐待される
  5. エネルギーが極端に亡くなる
  6. 正常な思考をするエネルギーがなくなる
  7. 安心できなくなる
  8. 正気に戻ったらまた虐待されるかもと自分でエネルギーを消耗する
  9. 感覚に対し適切な解釈ができず、妄想に取りつかれる
  10. 奇行に走る
何をしてもダメダメダメといじめられたら死にたくなるのは当然です。脳細胞が死んで脳の容積も減っていたことでしょう。栄養の欠乏と、疫病のダメージもあるかもしれませんね。ましてお化けが信じられていた時代ですから、おかしな考えを訂正する能力もなかったことでしょう。誰だって流血事件があった物件に住んだら怖くなりますよね。

私が思うに、思悼世子(サドセジャ)は心が弱かったのではなく、母と引き離され、心が育ち始める前に父に精神的に殺されてしまい頭の悪い世話係や臣下と関わっているうちに成長の機会を逃してしまったのだと思います。

人間は自分のことについて自力で、しかも正気で考えないと成長できませんから、その考える機会を奪われてしまってはまともに育つはずがありません。

なので、この二人が生まれながらにおかしいとか、そういうわけではないと思います。

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