「朝鮮の歴史と文化(姜在彦)」という本には古朝鮮の建国神話は次のように書かれています。
朝鮮の古代に関する書籍は高麗(コリョ)時代の1145年に王命によって金富軾(キム・ブシク)(1075~1151年)が編纂した「三国史記(サムグクサギ)」と1280年に一然(イルギョン)という高僧が編纂した「三国遺事(サムグクユサ)」があります。
金富軾(キム・ブシク)は「怪力乱神」を語らない儒者ですから、その史観は一然(イルギョン)のそれとはおのずから異なっていて、朝鮮の建国神話である檀君(タングン)神話は、「三国史記」には書かれていません。しかし「三国遺事」には、いまは伝わらない「古記」にもとづいて、ほぼ次のように書かれています。
垣雄(ホアンウン)は部下三千人を率いて太伯(テベク)山頂の神檀樹下に降りて、これを神市(神々の集会所)としました。彼は風伯、雨師、雲師を率いて穀、命、病、刑、善悪をはじめ、人間の三百六十余事を主管して世を治めました。
このとき一匹の熊と一匹の虎が洞穴で同居していて、人間に化生することを願っていました。垣雄(ホアンウン)は一把のヨモギと二十個のニンニクを与え、これを食して百日間日光を見なければ人間に化生するだろう、といいました。熊は洞穴にこもって日光を避けること三十七日にして熊女(ウンニョ)いなりましたが、虎は辛抱しきれず、人間に化生することはできませんでした。熊女は檀樹の下で身ごもることを祈りました。垣雄(ホアンウン)は人間に化身して熊女と結ばれたところ、彼女は檀君王倹(ワンゴム)を産みました。
檀君は中国の堯帝が即位して五十年目の庚寅の年に、平壌を都として、はじめて朝鮮(チョソン)と称しました。檀君は一千五百年間国を治め、周の武王のとき箕子(キジャ)が朝鮮に封ずると、阿斬達(アサダル)にかくれて山神になりました。寿命が一千九百八歳でした。
この本の著者の姜在彦氏の説明によると、檀君の建国神話に登場する垣雄(ホアンウン)が天から降臨して天符印三箇(三種の神器)を持ってきたという話と、日本神話の天孫降臨と三種の神器という話がよく似ているそうです。檀君神話の中で熊や虎をトーテムとして崇拝したことは北方系狩猟民族に見られる信仰で著者は濊狛(イエメク)族が熊や虎を信仰していたと考えています。これは朝鮮の原始種族がアルタイ山脈からシベリアを東に移動し、さらに満州から朝鮮半島に南下してきた経路と符号します。著者は高麗(昔の日本語でコマ)は熊(コム)という朝鮮語が訛ったものではないか、アイヌ民族の熊信仰も北方狩猟民族のトーテムとして共通していると考えています。
檀君は中国から箕子(キジャ)を迎えて国譲りし、阿斬達(アサダル)にかくれて山神になったとあります。檀君朝鮮の次に箕子朝鮮が続いたことを意味します。この箕子は中国の殷の末期に暴君として有名な紂王(ちゅうおう)の太師だった人です。箕子は紂王が諫言を聞き入れないので身を隠してしまった。殷は武王に滅ぼされ、箕子は紀元前1122年に周の国から朝鮮に移住して礼儀、田蚕、織作を伝えたとあります。
孔子は殷の国には三人の仁人がいたと言っています。その一人が箕子であるといっています。中国(殷)では箕子が主張する道が行われないことに失望し、海を渡って亡命したと述べています。
「子曰く、道行われず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。」
(不可解なのは著者がこの孔子が朝鮮にあこがれて海を渡って行こうと考えていたと主張していますが・・・あこがれを抱くには何の根拠があるのか日本人の私には理解できませんでした。)
この本では著者は儒者が小中華を自負していたとあります。おそらくそれは朝鮮の人々にとって本当のことなのでしょう。
この箕子朝鮮(きしちょうせん、キジャチョソン)というのは、紀元前194年まで現在の北朝鮮に相当する地域が箕子朝鮮だと推定されています。
朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたとwikipediaに書いてありました。
この話は韓ドラの「朱蒙(チュモン)」に解慕漱(ヘモス)や召西奴のようなヒーロー・ヒロインたちが「流民(亡国の遺民)」を率いて国を建国する過程と似ていますね。国が滅びて王族が民とともに大陸を彷徨うことは本当にあったことなのでしょう。
箕子が中国から朝鮮に定住するためにはそれなりに武力を要したことが伺えます。
新羅の始祖王は朴赫居世(パクヒョクコセ)といい、紀元前57年に王になりました。
いまの慶州(キョンジュ)を中心とした辰韓(ジンハン)に六つの村がありました。その六村の村長たちは村民を連れて閼川(アルチョン)の丘に集まり集会をしていました。ところが楊村の麓の蘿井(ナジョン)のある林に瑞気が地に垂れ、白馬が天降しました。人の気配がすると白馬は一声いなないて天に昇り、紫色の大卵だけが残って、神童が生まれました。村長や村民たちはこの神童を推戴して国王とし、国名を徐羅伐(ソラボル)としました(「三国遺事」より)。
この新羅の建国にまつわる卵生神話は伽耶(カヤ)の建国伝説にも共通しています。
駕洛(カラク)国の村長たちが亀旨峰(クジボン)に集まり祭壇で神迎えの祭りをしていました。天から神の声が聞こえ、紫色の縄が天から降りてきて、その先の金色の櫃(ひつ)から六個の卵が出てきました。その卵が孵化(ふか)して六人の神童が生まれ、それぞれ六駕洛(カラク)の王となりましたが、そのなかの大駕洛(カラク)の王になったのが首露王(スロワン)でした。
(朝鮮北方から南下した文化が、南方の文化と出合い融合したと姜在彦氏は述べていますが、どうなんでしょうね。私はそうとは限らないのではと思います。)
この著者の姜在彦氏は面白いことに瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」に天降したことが、場所が玄界灘を挟んで向き合っていると言っています。私(このブログの著者)も伽耶の亀旨峰(クジボン)と名前が似ていると思います。漢字は当て字でしょうから。姜在彦氏が金達寿(キム・ダルス)氏に聞いた話では、新潟には現在も卵や鶏をタブーとして食べない地方があるそうです。姜在彦氏は間違いなく鶏トーテムを信仰する新羅の渡来人の子孫ではないかと述べています(日本各地に渡来人と思われる風習の残る村があります)。
朝鮮の古代に関する書籍は高麗(コリョ)時代の1145年に王命によって金富軾(キム・ブシク)(1075~1151年)が編纂した「三国史記(サムグクサギ)」と1280年に一然(イルギョン)という高僧が編纂した「三国遺事(サムグクユサ)」があります。
金富軾(キム・ブシク)は「怪力乱神」を語らない儒者ですから、その史観は一然(イルギョン)のそれとはおのずから異なっていて、朝鮮の建国神話である檀君(タングン)神話は、「三国史記」には書かれていません。しかし「三国遺事」には、いまは伝わらない「古記」にもとづいて、ほぼ次のように書かれています。
目次
檀君神話
大昔、垣因(ホアンイン)という天帝がいて、その庶子には垣雄(ホアンウン)がいました。垣雄(ホアンウン)が天の下の人生に深い関心をもっていたので、垣因(ホアンイン)は下界に降りていって「弘益人間」(弘く人のためにつくすこと)するよう、天符印三箇を授けて天降りさせ、人の世を治めさせました。垣雄(ホアンウン)は部下三千人を率いて太伯(テベク)山頂の神檀樹下に降りて、これを神市(神々の集会所)としました。彼は風伯、雨師、雲師を率いて穀、命、病、刑、善悪をはじめ、人間の三百六十余事を主管して世を治めました。
このとき一匹の熊と一匹の虎が洞穴で同居していて、人間に化生することを願っていました。垣雄(ホアンウン)は一把のヨモギと二十個のニンニクを与え、これを食して百日間日光を見なければ人間に化生するだろう、といいました。熊は洞穴にこもって日光を避けること三十七日にして熊女(ウンニョ)いなりましたが、虎は辛抱しきれず、人間に化生することはできませんでした。熊女は檀樹の下で身ごもることを祈りました。垣雄(ホアンウン)は人間に化身して熊女と結ばれたところ、彼女は檀君王倹(ワンゴム)を産みました。
檀君は中国の堯帝が即位して五十年目の庚寅の年に、平壌を都として、はじめて朝鮮(チョソン)と称しました。檀君は一千五百年間国を治め、周の武王のとき箕子(キジャ)が朝鮮に封ずると、阿斬達(アサダル)にかくれて山神になりました。寿命が一千九百八歳でした。
この本の著者の姜在彦氏の説明によると、檀君の建国神話に登場する垣雄(ホアンウン)が天から降臨して天符印三箇(三種の神器)を持ってきたという話と、日本神話の天孫降臨と三種の神器という話がよく似ているそうです。檀君神話の中で熊や虎をトーテムとして崇拝したことは北方系狩猟民族に見られる信仰で著者は濊狛(イエメク)族が熊や虎を信仰していたと考えています。これは朝鮮の原始種族がアルタイ山脈からシベリアを東に移動し、さらに満州から朝鮮半島に南下してきた経路と符号します。著者は高麗(昔の日本語でコマ)は熊(コム)という朝鮮語が訛ったものではないか、アイヌ民族の熊信仰も北方狩猟民族のトーテムとして共通していると考えています。
檀君は中国から箕子(キジャ)を迎えて国譲りし、阿斬達(アサダル)にかくれて山神になったとあります。檀君朝鮮の次に箕子朝鮮が続いたことを意味します。この箕子は中国の殷の末期に暴君として有名な紂王(ちゅうおう)の太師だった人です。箕子は紂王が諫言を聞き入れないので身を隠してしまった。殷は武王に滅ぼされ、箕子は紀元前1122年に周の国から朝鮮に移住して礼儀、田蚕、織作を伝えたとあります。
孔子は殷の国には三人の仁人がいたと言っています。その一人が箕子であるといっています。中国(殷)では箕子が主張する道が行われないことに失望し、海を渡って亡命したと述べています。
「子曰く、道行われず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。」
(不可解なのは著者がこの孔子が朝鮮にあこがれて海を渡って行こうと考えていたと主張していますが・・・あこがれを抱くには何の根拠があるのか日本人の私には理解できませんでした。)
この本では著者は儒者が小中華を自負していたとあります。おそらくそれは朝鮮の人々にとって本当のことなのでしょう。
この箕子朝鮮(きしちょうせん、キジャチョソン)というのは、紀元前194年まで現在の北朝鮮に相当する地域が箕子朝鮮だと推定されています。
朝鮮侯箕子は殷の遺民を率いて東方へ赴き、礼儀や農事・養蚕・機織の技術を広め、また犯禁八条を実施して民を教化したので、理想的な社会が保たれたとwikipediaに書いてありました。
この話は韓ドラの「朱蒙(チュモン)」に解慕漱(ヘモス)や召西奴のようなヒーロー・ヒロインたちが「流民(亡国の遺民)」を率いて国を建国する過程と似ていますね。国が滅びて王族が民とともに大陸を彷徨うことは本当にあったことなのでしょう。
箕子が中国から朝鮮に定住するためにはそれなりに武力を要したことが伺えます。
新羅と伽耶の卵生神話
一方で新羅や伽耶の建国神話は卵から王が誕生した神話があります。朝鮮半島南部(現在の韓国)は濊狛(イエメク)族とは異なり韓(ハン)族が住んでいましえた。韓族の始祖伝説に卵生説ああります。初期の新羅(シルラ)の王系につながる朴氏、昔氏(ソクシ)、金氏(キムシ)の始祖伝説には例外なく卵、鶏、鶏林(ケリム)が関わっていて、新羅の別称を鶏林ということもあります。(著者はこれを新羅族の鶏のトーテムと考えています。)新羅の始祖王は朴赫居世(パクヒョクコセ)といい、紀元前57年に王になりました。
いまの慶州(キョンジュ)を中心とした辰韓(ジンハン)に六つの村がありました。その六村の村長たちは村民を連れて閼川(アルチョン)の丘に集まり集会をしていました。ところが楊村の麓の蘿井(ナジョン)のある林に瑞気が地に垂れ、白馬が天降しました。人の気配がすると白馬は一声いなないて天に昇り、紫色の大卵だけが残って、神童が生まれました。村長や村民たちはこの神童を推戴して国王とし、国名を徐羅伐(ソラボル)としました(「三国遺事」より)。
この新羅の建国にまつわる卵生神話は伽耶(カヤ)の建国伝説にも共通しています。
駕洛(カラク)国の村長たちが亀旨峰(クジボン)に集まり祭壇で神迎えの祭りをしていました。天から神の声が聞こえ、紫色の縄が天から降りてきて、その先の金色の櫃(ひつ)から六個の卵が出てきました。その卵が孵化(ふか)して六人の神童が生まれ、それぞれ六駕洛(カラク)の王となりましたが、そのなかの大駕洛(カラク)の王になったのが首露王(スロワン)でした。
(朝鮮北方から南下した文化が、南方の文化と出合い融合したと姜在彦氏は述べていますが、どうなんでしょうね。私はそうとは限らないのではと思います。)
この著者の姜在彦氏は面白いことに瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」に天降したことが、場所が玄界灘を挟んで向き合っていると言っています。私(このブログの著者)も伽耶の亀旨峰(クジボン)と名前が似ていると思います。漢字は当て字でしょうから。姜在彦氏が金達寿(キム・ダルス)氏に聞いた話では、新潟には現在も卵や鶏をタブーとして食べない地方があるそうです。姜在彦氏は間違いなく鶏トーテムを信仰する新羅の渡来人の子孫ではないかと述べています(日本各地に渡来人と思われる風習の残る村があります)。
きょうのまとめ
朝鮮史-古代史(筆者作成)
朝鮮半島は北方系の狩猟民族と、南方系の農耕民族、中華から来た民族などが同じ言語、文化を共有した地域といえましょう。そして朝鮮や中国から日本に渡って来た渡来人が文化を伝え、アイヌや熊襲など前からいた民族を討伐(東北~北海道、鹿児島付近)・支配・同化(例えば諏訪周辺)するなどして日本という国を造られたのだとわかります。高句麗の東方の日の出信仰や三足鳥信仰と三種の神器や朝鮮の白衣文化は日本の日の出信仰と神道の白衣文化とヤタガラス信仰や三種の神器とよく似ています。伽耶につたわる神話も日本神話に登場する山の名前とそっくりですね。