ユン・ウォニョン(尹元衡)
朝鮮に実在した人物です。韓国ドラマ「オクニョ運命の人」に登場するコミカルなキャラクター「ユン・ウォニョン」。
ユン・ウォニョンの概要
ユン・ウォニョン(尹元衡)は1509年に生まれ1565年 11月18日に亡くなった朝鮮の両班です。姉は文定大妃(ムンジョンテビ)で明宗(ミョンジョン)の母で王室の外戚で明宗の叔父(おじ)です。父はユン・ジイム(尹之任)といい1475年?~1534年に没しました。母は全城府夫人全義李氏(ジョンソンブプインジョンウィイシ)です。ユン・ウォニョン(尹元衡)は四男です。全義李氏(ジョンウィイシ)というのは高麗(コリョ)王国建国の際の二等功臣の末裔です。
本貫は波平(パピョン)。号は彦平(オンピョン)です。
ユン・ウォニョン(尹元衡)は小尹(ソユン)という政治勢力の首領で乙巳士禍(ウルササガ)をねつ造しました。
経歴(キャリア)
1533年(中宗28年)に別試(ピョルシ、臨時の科挙)の文科に合格します(推定24歳頃)。鄭蘭貞(チョン・ナンジョン)は彼の愛妾の悪女でした。ユン・ウォニョンは慶源大君(キョンウォンテグン)を国王にしようと画策し、親族であるユン・イム(尹任)という大尹(デユン)派の首領と、キム・アルロ(金安老)と戦いました。その結果、ユン・ウォニョンは流刑になりました。明宗が即位して1年目の1544年、ユン・ウォニョンは承政院(スンジョンウォン)の左副承旨(チャブスンジ)と工曹参判(コンジョチャムパン)に任命されましたが、ソン・インスの弾劾を受けてはく奪されました。1545年仁宗(インジョン)が崩御すると、明宗を代わりに王に立て文定大妃(ムンジョンテビ)が垂簾聴政をする中でユン・ウォニョンは復帰しました。
その後、礼曹参議(イェジョチャミ)を経て、1546年にイ・ギ(李芑)、チョン・スンボン(鄭順朋)、イム・ベクリョン(林百齡)などとともに大尹(テユン)派を一掃するために乙巳禍(ウルサガ)を起こし士林派勢力にも打撃を与えました。続いて良才駅壁書事件をもとに精米禍も起こして士林を粛清して政界から追放しました。1547年には仁宗(インジョン)実録と中宗(チュンジョン)実録の編纂にも参加しました。乙巳士禍(ウルササガ)の功労によりソ院君(漢字わからず)に封じられました。チジュンチュブサ、吏曹判書(イジョパンソ、文官を管理する吏曹の長官)を経て議政府右議政と領議政となり西原府院君(ソウォンプウォングン)に封じられました。1560年、彼の権力拡大を警戒した明宗は、自分の妻の叔父であるイ・リャン(李樑)を登用したがイ・リャンもまた保身と蓄財に重点を置いたため政局は混乱しました。
事件後、逆賊になりチョン・ナンジョンとともに自害したユン・ウォニョンでありましたが1907年(隆煕1年)11月から当時の大韓帝国内閣総理大臣であった李完用により1908年1月に身分と肩書を回復し4月に罪から回復しました。
良才駅壁書事件
以下の怪文書の張り紙が都城(トソン)に貼られた事件です。
女主執政于上
奸臣李芑等弄權於下
國之將亡
可立而待。
豈不寒心哉
文定大妃(ムンジョンテビ)を批判する内容となっています