典獄署(전옥서, チョノクソ)
典獄署(チョノクソ)
ドラマ「オクニョ」より(Youtube SBS公式動画より参考イメージ)
韓国ドラマ「オクニョ」の舞台でもある典獄署。典獄署は韓国語で전옥서と書き、発音も日本語と同じチョノクソです。朝鮮時代には現在のような懲役刑のような収監制度がなかったので[4]、典獄署は現代の刑期を過ごし罪を償う所である刑務所とは違いました。典獄署の役割は刑曹などで公判で裁きを受け判決が出るまで各役所と典獄署を押送することが主な業務でした。典獄署は瑞麟坊(ソリンバン)に位置しました。現在の韓国の鍾路区瑞麟洞鐘閣駅近くの世宗文化会館前に典獄署の石碑があります。典獄署のおおよその位置はGPS:37˚34.62N126˚58.93E, 住所:鍾路区清渓川路41にあったと言われます。1914年に日帝(日本帝国)に名前を変えられる以前は典獄署があった場所は典獄洞と呼ばれていました[5]。典獄署の隣には左右捕盗庁(ポドチョン)がありました[5]。
制度
典獄署は李氏朝鮮の前の高麗建国時より存在しました。995年、高麗の成宗の時代に大理寺(テリサ)と一時的に名称が変更されましたが高麗王文宗(ムンジョン)の時に元の名称に戻されました。大理寺(テリサ)は古代中国王朝にあった罪人を閉じ込める牢獄のことです。寺という漢字の起源は仏教のお寺とは別の意味を持っていたことがわかります。
李氏朝鮮時代に経国大典が整備され、典獄署は太祖(テジョ)1年(1301年)に設置されました。典獄署は1405年に刑曹の管轄下に入りました[4]。右副承旨(ウブスンジ)が典獄署の副提調(ブジェジョ)を兼任し、従六品の主簿(チュブ、オクニョでチョン・デシクが署長をしていた身分)、従八品の奉事(ボンサ)、従九品の参奉(チャンボン)が一人ずつ置かれました。胥吏(ソリ, 서리, 平民出身の役人)4人と、羅將(ナジャン、日本の漢字で羅将)が30人置かれて押送などを担当しました[4]。
役人や両班の罪人は義禁府(ウイグムブ)が担当したため、典獄署(チョノクソ)では主に常民(サンミン)を収監していました。
李氏朝鮮時代に経国大典が整備され、典獄署は太祖(テジョ)1年(1301年)に設置されました。典獄署は1405年に刑曹の管轄下に入りました[4]。右副承旨(ウブスンジ)が典獄署の副提調(ブジェジョ)を兼任し、従六品の主簿(チュブ、オクニョでチョン・デシクが署長をしていた身分)、従八品の奉事(ボンサ)、従九品の参奉(チャンボン)が一人ずつ置かれました。胥吏(ソリ, 서리, 平民出身の役人)4人と、羅將(ナジャン、日本の漢字で羅将)が30人置かれて押送などを担当しました[4]。
役人や両班の罪人は義禁府(ウイグムブ)が担当したため、典獄署(チョノクソ)では主に常民(サンミン)を収監していました。
構造
典獄署の獄舍は男獄(東圜)と女獄(ヨオク、西圜)に分かれています。使令廳(サリョンチョン、ドラマオクニョでおそらく署長のチョン・デシクがいた部屋)、上直房(サジクバン)、軍士守直房(クンサスジクバン…と読むと思います。見張りの兵士のいる部屋だと思います。)、獄門、紅箭門などで構成されています。
男獄と女獄は中宗(チュンジョン)13年に塀で囲まれるようになりました。それまでは重罪人が男女の別なく収監されることで囚人が姦淫し(強姦され[4])獄中で子が生まれることもありました(中宗実録13年1月6日)[1]。典獄署の環境が劣悪である様子は多くの文献に記載されています。あまりに囚人が多すぎるため、刑が軽い者を釈放する上疏(じょうそ、上奏)もあったようです。典獄署の中の環境は劣悪で寒さで死ぬ囚人や自殺する者が少なくありませんでした[6]。高宗31年(1894年)に監獄署(グアンオクソ)に改称し警務庁所属となるまでこの状況は続きました[4]。
李氏朝鮮時代には典獄署(チョノクソ)の囚人の数は全体で100人程度でしたが200人になり過密になりすぎる時期もありました。獄舎は男獄が九監、女獄が五監でした[2]。国事犯はナムオク(남옥、〇獄ちょっと漢字がわかりませんでした。藍玉と書かれていましたので発音は同じでも男獄とは違うかも。中国史の藍玉の獄がルーツになっているのかなぁ。しかし引用元が漢字に不慣れなので間違ってる可能性もある。)、庶民は庶獄に収監され区別されました。
典獄署の様子は囚徒記にまとめられ、定期的に国王に報告されました[2]。罪人が多すぎる時、暑すぎる時や寒すぎる時には主に司憲府(サホンブが)刑の軽い者を放免することがありました[4]。
典獄署の様子は囚徒記にまとめられ、定期的に国王に報告されました[2]。罪人が多すぎる時、暑すぎる時や寒すぎる時には主に司憲府(サホンブが)刑の軽い者を放免することがありました[4]。
朝鮮時代の繋獄(典獄署含む)には市井の罪人だけでなく義禁府や六曹、宗簿寺(ジョンブシ)、司憲府(サホンブ)、觀察使、捕盗庁(ポドチョン)、議政府、掌隷院、漢城府、備邊司などで捕らえられた政治犯も収監されました[3]。
繋獄では手匣と枷鎻杻がはめられましたが、病気でも外されることはありませんでした(ドラマのオクニョではこれらの拘束具は獄中では着用してませんでした)。また、衣服・食糧・医薬の提供がなかったため、家族が外部から持ち込み生命を維持していました。投獄した者は刑訊(時代劇でよくみられる拷問のことだろうか?)があり拘束されているため判決までに死ぬ場合が多かったそうです[3]。
公開処刑が行われ、釜茹での刑(烹刑)などが惠政橋と福淸橋あたり(光化門郵便局の北付近)で行われました[5]。遺族は生業を続けることができるが生まれてきた子は庶子となりました。
典獄署の女獄は特に厳しく管理されるようにしていたにもかかわらず、水や食糧は闖門(틈문)より届けられ、夏には伽杻をきれいに洗い、頻繁に掃除をして冬には藁席を十分に与えて隙間風を防いでいました[6]。それでも天気が良ければ日差しが当たり、雨が降れば雨に濡れ病気を得る者も多く、罪が軽い場合は保証人を立てて釈放することもありました[6]。
注簿(チュブ)は印信を担当し、参奉(チャンボン)は重罪人の安置や伽杻や足鎖の拘束の仕事を引き受けました[6]。
典獄署の女獄は特に厳しく管理されるようにしていたにもかかわらず、水や食糧は闖門(틈문)より届けられ、夏には伽杻をきれいに洗い、頻繁に掃除をして冬には藁席を十分に与えて隙間風を防いでいました[6]。それでも天気が良ければ日差しが当たり、雨が降れば雨に濡れ病気を得る者も多く、罪が軽い場合は保証人を立てて釈放することもありました[6]。
注簿(チュブ)は印信を担当し、参奉(チャンボン)は重罪人の安置や伽杻や足鎖の拘束の仕事を引き受けました[6]。
後期李氏朝鮮の典獄署
英祖18年(1742年)に五部官制が改正されました。当時、五部の注簿(チュブ)と参奉(チャンボン)は中庶人から一人ずつ任命され、大小の事務を行っていましたが、注簿(チュブ)と参奉(チャンボン)の役人(吏隷)の身分がいささか卑しく廩料(=俸禄)も僅かまたは皆無で正規の官府(=役所)の官人(役人)らしくないことが問題であると議論されました。上様(=英祖)は「今の部官(=五部の役人)は古(いにしえ)の雒陽令(らくようれい。中国の雒陽令という役職のこと、さほど高位の官職でもないのに警察権など強い権限を持っている者)のようだ。人材を選ぶことができぬのに、どうして令行を禁止にできようか?(身分が卑しいため国王と直接話をできないので、上の身分の者が命令を下せないという意味かなと思います)」とおっしゃると、遂にそれに対応するため廟堂(政治をつかさどるところ)に命令が下されました。この参奉(チャンボン)の奉職は、注簿(チュブ)を都事(トサ)に改め、参奉(チャンボン)には奉事(ボンサ)に改め士大夫(つまり両班)の“よい家柄の者(地望者)”から任命し廩料(=俸禄)を賜りました[6]。そうすることで、中庶輩(チュンソベ)が入仕できる余地がなくなり、禮賓寺(イェビンサ)と典獄署に参奉(チャンボン)の両席(2席追加で3名体制)をとり差をうめました。さらにまた、国王が御筆でおっしゃいました「人材が士大夫(サデブ)に偏っておる。これでは有能な中庶が役職に就けず沈滯してしまう(業務が停滞するという意味)弊が生じるではないか。有望な者がいれば中庶からも参奉(チャンボン)に登用せよ。参奉(チャンボン)の席は定式(儀式のことでしょうか?)の後、参奉(チャンボン)の用事に基づき、銓曹(人事関連の部署である吏曹、イジョのこと)に指示しなさい。」と(私流に書くとこうなりました、漢字に不慣れな引用元に、やはり誤字がありました)。
(すみません、機械翻訳では意味わかりませんでしたので自力で漢文から解読しました(ハングル語は原本からの訳がおかしかったです)。英祖実録56巻、英祖18年10月14日の日記です。つまり朝廷とコミュニケーションするために高貴な身分が必要で報告用の両班とは別途実務を遂行する役人を中庶からとって3人体制にしたのかと。)
英祖22年に庶のみ任命することが問題視され、士大夫、中(中人)、庶(庶民)から融通することにしましたが、その後参奉(チャンボン)に適格者(おそらく士大夫のこと)が任命されないことが何度も問題になりました(要するに誰もやりたくないという意味でしょう)。
漢文がありました。
(最後らへんは翻訳機にかけても意味がわかりませんでした。)
(すみません、機械翻訳では意味わかりませんでしたので自力で漢文から解読しました(ハングル語は原本からの訳がおかしかったです)。英祖実録56巻、英祖18年10月14日の日記です。つまり朝廷とコミュニケーションするために高貴な身分が必要で報告用の両班とは別途実務を遂行する役人を中庶からとって3人体制にしたのかと。)
英祖22年に庶のみ任命することが問題視され、士大夫、中(中人)、庶(庶民)から融通することにしましたが、その後参奉(チャンボン)に適格者(おそらく士大夫のこと)が任命されないことが何度も問題になりました(要するに誰もやりたくないという意味でしょう)。
漢文がありました。
○改定五部官制。初京都設五部、每部置主簿、參奉各一人、以任部內大小事務、而主簿、參奉皆以中庶爲之、地旣卑微、不敢自處以官人、部屬、吏隷數少而無廩料、不成官府貌樣。上以爲「今之部官、乃古之雒陽令。不能擇人、何以能令行禁止?」遂命廟堂、使之變通。於是改主簿爲都事、參奉爲奉事、擇士夫之有地望者、爲之部屬、吏隷亦賜廩料。又以中庶輩、旣失五部、則無入仕之路、以禮賓寺、典獄署、各設參奉兩窠、以塡差之。上復以御筆敎曰:「人之材否、豈係士庶?偏用士夫、則中庶抱才者、必不無沈滯之弊。參奉窠定式之後、一依部參奉例調用事、申飭銓曹」[7]朝鮮後期には胥吏(ソリ)は2人増えて6人になり、徒隷ではサリョン(漢字はわからず、司令かな)が10人、仵作(検視)が1人、軍事が10人、鎖匠が1人になりました。囚人は重囚と輕囚に区別されました。死刑が決定した者は結案罪人と呼ばれました[6]。
(最後らへんは翻訳機にかけても意味がわかりませんでした。)
文献
[1] 趙允旋(韓国古典翻訳院研究員)http://m.itkc.or.kr/bbs/boardView.do?id=75&bIdx=32799&page=1&menuId=125&bc=6 典獄署
[2]https://namu.wiki/w/전옥서
[3]http://dh.aks.ac.kr/sillokwiki/index.php/계옥(繫獄)
[4]https://www.culturecontent.com/content/contentView.do?search_div=CP_THE&search_div_id=CP_THE010&cp_code=cp1012&index_id=cp10120089&content_id=cp101200890001&print=Y(参考画像あり)
[5]http://news.joins.com/article/3564027
[6]https://klri.re.kr/download/uploadfile_download.do?path=%2Fuploadfile%2FAK20%2Fklri24_12.pdf
[7]http://sillok.history.go.kr/id/kua_11810014_003
ちなみに「オクニョ」のチ・チョンドクは서리(胥吏、ソリ)という庶民でも役人の仕事をする役職です。ドラマの中でチョン・デシクは署長と日本語に訳されておりましたが役職は注簿(チュブ)でした。ユ・ジョンフェという役人は参奉(チャンボン)をしておりイ・ヒョソン奉事(ボンサ)よりも身分が一つ下の最下級の役人でした。ちなみにソン・ジホンは吏曹正郎(イジョチョンナン)であり注簿(チュブ)より一つ上の身分です。
[2]https://namu.wiki/w/전옥서
[3]http://dh.aks.ac.kr/sillokwiki/index.php/계옥(繫獄)
[4]https://www.culturecontent.com/content/contentView.do?search_div=CP_THE&search_div_id=CP_THE010&cp_code=cp1012&index_id=cp10120089&content_id=cp101200890001&print=Y(参考画像あり)
[5]http://news.joins.com/article/3564027
[6]https://klri.re.kr/download/uploadfile_download.do?path=%2Fuploadfile%2FAK20%2Fklri24_12.pdf
[7]http://sillok.history.go.kr/id/kua_11810014_003
ちなみに「オクニョ」のチ・チョンドクは서리(胥吏、ソリ)という庶民でも役人の仕事をする役職です。ドラマの中でチョン・デシクは署長と日本語に訳されておりましたが役職は注簿(チュブ)でした。ユ・ジョンフェという役人は参奉(チャンボン)をしておりイ・ヒョソン奉事(ボンサ)よりも身分が一つ下の最下級の役人でした。ちなみにソン・ジホンは吏曹正郎(イジョチョンナン)であり注簿(チュブ)より一つ上の身分です。