許任(ホ・イム、허임)
許任(ホ・イム、허임、生没年不詳)は朝鮮中期の医官兼官僚で宣祖(ソンジョ)の治世から光海君(クァンへグン)の治世まで活躍した人物です。本貫は河陽(하양, ハヤン)と言い、号は山南(サンナム)で本来は常民(サンミン、じょうみん)出身です。鍼治療に精通したとされます。全羅道(チョルラド)の羅州(ナジュ)出身で幼年期を全羅道(チョルラド)の木浦(モッポ)と江原(カンウォン)、襄陽(ヤンヤン)と京畿道(キョンギド)の始興(シフン)と慶尚道(キョンサンド)の慶山と金海(キメ)で過ごしたといわれます。同時期に活躍した名医に龜巖(クァアム)許浚(ホジュン)がいます。河陽許氏の始祖は金官伽羅国の国王、金首露(キムスロ)と妃のサータヴァーハナ朝の王女許黄玉の子孫です。
許任(ホ・イム)は1644年(仁祖22年)に「鍼灸経験方」を出版して、それ以外にも「東医聞見方」を著しています。
目次
キャリア
- 鍼醫(침의、チムィ)・・・鍼医のこと。
- 治腫敎授(치종교수、チジョンギュウソ)・・・特命の官職。
- 內鍼醫(내침의、ネチム)・・・内鍼医。王宮内の鍼医。
概要
父は襄陽(ヤンヤン)の官奴(かんど)出身の楽工で典樂(ジョンアク)を務めた許億逢(ホ・オクボン)です。母は私婢(サビ)でした。ホ・イムは「鍼灸経験方」で医師を志した動機は、幼いころに親を治療したいと述べています。ホ・イムは壬辰倭乱(じんしんわらん、豊臣秀吉の朝鮮侵攻)の時に活躍して光海君(クァンへグン)に認められました。終戦後には宣祖(ソンジョ)の片頭痛を鍼治療して治療堂上官に昇進しました。光海君(クァンへグン)の時に衛聖功臣(えいせいこうしん、ウィソンゴンシン、위성공신)に冊封されましたが官職を剥奪され功臣号も取り消されました。老年に公州(コンジュ)に滞在して弟子を指導し、鍼灸經驗方を著しました。
生涯
許任(ホ・イム、허임)は襄陽都護府(ヤンヤントゴブ)の官奴(クァンノ)許億逢(ホ・オクボン、許億鳳、許億奉、または許億福)と宰相金貴榮(キム・グィヨン、김귀영)の私卑(サビ)との間に生まれました。出生時期と出生場所を知ることはせきません。
父の許億逢(ホ・オクボン)は楽工(アクゴン)出身の樂師で掌楽院(チャンアグォン)の典樂(전악、ジョンアク)まで昇進しました。許億逢(ホ・オクボン)は当代最高の笛奏者で、琴の演奏も上手でハクチュム(학춤、朝鮮の伝統舞踊)もよく踊りました。
親から卑しい身分と優れた才能を一緒に譲り受けた許任(ホ・イム)は壬辰倭乱(じんしんわらん=文禄・慶長の役)で鍼医(鍼醫)としての才能を存分に発揮することができました。許任は後の宣祖(ソンジョ)を扈從(ホジョン、こしょう)しました。鍼治療を介して身分の限界まで克服することができました。
許任(ホ・イム)は壬辰倭乱(じんしんわらん=文禄・慶長の役)で陣頭指揮を執る光海君(クァンへグン)に随行し喉の痛みや片頭痛を治療し長きにわたる戦争で薬剤が底をついた時に活躍し1549年に従六品の治腫敎授に昇進しました。
戦争が終わった後に內鍼醫(ネチム)が設置され宣祖(ソンジョ)も鍼医を側に置きました。1604年(宣祖37)9月23日には夜中に患っていた片頭痛発作が起きてその場で鍼を打ち、御醫(オイ、御医)の許浚(ホ・ジュン)のすすめで顎と喉に鍼を打ち、その功績が認められて堂上官(タンサングァン)に昇格しました。その後も許任(ホ・イム)は宣祖(ソンジョ)に何度か鍼治療を行いました。
光海君(クァンへグン)が王位に上がると許任(ホ・イム)は永平縣令(영평 현령、県の長官、従五品相当、地方都市の長官のようなもの)、富平都護府使(부평 도호부사)、南陽都護府使(남양 도호부사、地方府の長官、従三品相当、府知事のようなもの)など外職を経ながらそこ(府舎で、つまり赴任地で)鍼を据えました。
1613年(光海君5年)には、衛聖功臣三等に録勲され「竭忠盡誠衛聖功臣嘉善大夫河興君」という号が贈られました。光海君(クァンへグン)の寵愛が深まると許任(ホ・イム)は両班官僚の嫉妬の対象となり絶えず弾劾を受けるようになりました。朝鮮王朝実録には許任(ホ・イム)の卑しい身分を蔑む史官(サグァン)の史論も複数回掲載されました。
仁祖反正(インジョパンジョン)で光海君(クァンへグン)が追い出され許任(ホ・イム)は南陽都護府使(남양 도호부사)などの官位を剥奪され衛聖功臣三等も10年振りに奪われ(さくふんされ)ました。しかし彼の鍼治療は当代最高だったため、彼を追い出した人たちまで許任(ホ・イム)を呼んで鍼を打たせて効果を見ようと賞を与えました。そして정사원종공신(※靖社原從功臣功臣か?仁祖3年の功臣禄, 1625年)という称号が与えられました。
老年は壬辰(ジンシン)倭乱のときに三か月近く留まった忠清道(チュンチョンド)の公州に住みました。ここで一生の臨床経験を集約した「鍼灸経験方(침구경험방)」を著して出版し、後進の育成を行いました。朝鮮時代の浮田洞、忠清南道 公州市 牛城面(ウソンミョン) 内山里(ネサンリ)には許任の子孫が住んでおり、許任の弟子の崔宇量(チェ・ウリャン 1599年〜1671年)の子孫も住んでいます。
著書
許任が晩年に著した「鍼灸経験方(침구경험방)」は1644年(仁祖22)に全羅道監営で木版本で初めて出版されました。17世紀はじめには日本でも出版されました。中国の清朝末期の「寝具集成」に「鍼灸経験方」が含まれました。
- 「鍼灸経験方(침구경험방)」・・・1644年。チングギョンホンバン。鍼灸経験方 3巻(京都大学アーカイブ)
- 「東医聞見方(동의문견방)」・・・トンイムンギョンバン。
- 「四醫經驗方(사의경험방)」・・・サウィギョンホンバン。
記録
許任が登場する記録です。
- 선조실록(宣祖實錄)
- 선조수정실록(宣祖修正實錄)
- 광해군일기(光海君日記)
- 승정원일기(承政院日記)